木曜日の午後-彼女の悲しみと顕在することの悲しみとは-
木曜日の午後に入ると足元の空気がしっとりと沈殿してゆく。これが冬の終わりの木曜日という特異な位置に存在する記号がそうさせているのかどうか判断はできない。しかし唯一僕が言えることは単に冬の終わりの木曜日と呼ばれる記号がこの地上に優しく降り注ぎ時間軸をしっかりと硬めているということだ。そしてその冬の終わりの木曜日が醸し出す奇妙な匂いに包まれて僕のコブが足の甲に存在する。 僕と彼女の距離はそこはかとなく言えば車2個分ある。真っ黒な外車では長すぎ、燃費の良い軽自動車では近すぎる。革張りのシートだとリラックスしすぎる傾向にあるし、ウーハーのついたステレオでは五月蝿すぎる。結局はそこはかとない距離としか言いようがない。「日差しが暖かくなったね」 一人呪文を唱えるよう言葉を口にすると行き場のなくなった音の振動が宙をさ迷ってしまう。台所の小窓から外をのぞくと都会の謙遜がまぶしい。彼女は消えたテレビと向き合いながらソファに座っている。そして誰も僕の発言なんて求めていないのだ。「ナスがだめになりそうだから何かつくろうか」 どうやら僕の言葉は何かが間違っているらしい。さきほどから僕の口から出てしまったものの宙をさ迷っている言葉たちが僕の周りをじわりと取り囲む。もしかしたら自分の存在自体が間違っているのかもしれない。それを否定するためにもういちど言葉をかける。「これで何が作れるかな。パスタとか?」 やはり間違っていたようだ。僕と彼女の間にはするんとした空間がそこにある。何か取っ掛かりがほしいな、と僕は思う。 でも僕は素直に諦めてナスの解体に取り掛かる。きっとナスに話しかけたほうが早いのかもしれない。ナスのヘタの部分に僕のミジンコのような言葉がひっかかる。すると僕は息を吹き返す。株の大暴落や地位や名誉を読み解き、瞬く間に上流貴族と化す。しかしだ、そのヘタも今は切り取られ捨てられようとしている。三角コーナーに放り投げるとまたもとのするんとした空間に戻ってしまった。 彼女はよくテレビを観た。実質的に観たというよりは流していたというほうが正しいかもしれない。僕らの生活の背景にはいつも、郵便強盗やら詐欺事件やら芸能人の破局といったニュースが流されていた。それは日常生活の背景となって僕らを取り囲んでいた。一度、彼女に聞いたことがある。なぜテレビをつけたままにするのか。「私もあなたも社会の一員なのよ。当然のことじゃない」 朝起きると、彼女は消えているテレビの前で泣いていた。前かがみにソファに座り、やや顔を前に突き出しテレビを見つめていた。いや、本当はテレビなんて見ていなかったのかもしれない。彼女の瞳は真っ黒なブラウン管の奥のまたその奥にあるものを捕らえていた気がした。僕が、何しているの?と尋ねても決して答えは返ってこなかった。彼女はただ、僕がわからない何かに対して涙を流していた。 さらにその姿は致命的なほど完璧で、僕に印象派の絵画を連想させる。ベランダから降り注ぐ明るい太陽光は2対の客体―テレビと彼女―を浮き上がらせ、ひとつの作品を作っていた。白い背景と黒い2つの客体はどことなく砂漠を思い起こさせる。砂漠の海に浮かぶ印象派は少しずつ海底へと沈んで溜まってゆく。 そして彼女は泣き続けた。声を上げることなく。不穏に満ちた表情になることなく。 木曜の午後、静かに僕の足元は揺れる。足の甲のコブが美しい情景を前にして僕に語りかける。本当はどちらなのかと。 僕は彼女のとなりに腰かけ、優しく体を抱いた。両腕に抱え込んでしまうとそれは今にも崩れ落ちそうなほど乾燥しきっていた。だから僕は強く抱く。体の芯を見失わないように。どうやら僕と彼女は一情景として張り付いてしまったようだ。木曜の午後という題名によって。