『ヤマトタケル』上演1,000回
初演以来、通算上演回数が1,000回を超えた。三代目に始まり、代々の役者が引き継ぎ繋げたこの芝居を、今、七人目である團子が演じている。999回目と、1004回目を、拝見。初日以来に観た團子は、その出から顔が違っていて、目を見張った。5日後に観た際は、また更に変化していて、二十歳の可能性の無限な事を思った。観る毎に、演じる毎に、顔も形も綺麗になっていくし、その芝居もどんどん変わる。見逃したくない思いに駆られてしまった。もちろん、課題は多々様々にある。それを一番解っているのは本人であり、周囲は承知して見守り手を差し伸べる。一門の結束はまた、團子だけの為ではない。長くこの御一門を観てきた一観客にとっても思う事は多く、更に観続けねばと決意する。主役の芝居が変化すれば、それを受ける側の芝居もまた変わる。橘の姉妹を演ずる中村米吉の芝居が、更に細やかに、情の変化を魅せる。初演のやり方に戻り、姉妹を早替りで演る米吉の、演じ分けが見事。「今」を担う弟姫と、「未来」を担う兄姫の、それぞれの在りように感動する。個人的に、これまで観てきた走水での弟姫に、ちょっぴり引っかかるものを感じていた。良し悪しではなく、好き嫌いでもなく、でも、何か極僅かに感じてしまうものがあった。米吉の、命懸けの恋をする弟姫を観て、ようやく理解出来たように思う。いつの頃からだったか、米吉の弟姫を観たいと、夢見てきた。それは同時に、ありえない夢でもあった…それまでの状況では。ところが叶ってしまって、自分の奥底で願っていた橘の姉妹を、そんな想像など及ばない以上の兄姫と弟姫を観る事が出来て、正に夢のようだ。今回初演のやり方を様々に感じ、物語の根の素朴さが浮かび上がったような気がする。たとえば、大碓命と小碓命、帝と倭姫、橘の姉妹、熊襲の兄弟、蝦夷の兄弟。たとえば、ヤマトタケルと、兄姫と、弟姫と、みやず姫と。それぞれの関係や、情や想いの在り方などを思いつつ観た。また、中村福之助、歌之助ご兄弟だからこそ、おそらく加えられただろう1場面から、ヤマトタケルと、タケヒコと、ヘタルベの関係について、改めて感じるものがあった。ヤマトタケルとは、何と寂しいものかと思う。初演の、三代目の宙乗りには、志半ばで逝かねばならぬほろ苦いものがあった。再演を重ねるごとに、そこに様々な意志が馳せられていった。先日観た隼人の宙乗りは、切なく慈しみに満ちていた。999回目に観た團子の宙乗りは、微笑みがあり、どこか明るかった。その若さには、絶望は無いのかもしれない。熊襲の兄弟、蝦夷の兄弟への言葉に、ここから先へ馳せる思いを感じた。1,004回目に観た時には、更に変化があり、積み重ねつつあるものを感じた。まだまだ可能性の翼を広げて翔んでいく姿を、追って行きたくて堪らない。