カテゴリ:小説「ジパング」
一、序章
200X年 某日 某所にて 星一つ見えない夜空。真っ白な雪が視界を埋めていく。冷えた手に息を吹きかけて暖めようとすると、吐息は白々しく、妙に冷たくさえ感じられた。 海上自衛隊三等海佐の小栗康平は日本国内のとある自衛隊の施設に呼び出され、ある通達を受けた。それは小栗のような海の男にとって願っても無いもの、のはずであった。しかし、当の小栗はうかない表情である。 厚い雲の隙間から刹那、月が顔を覗かせた。三日月である。はっ、月まで俺を笑ってやがる。と、小栗は口を歪ませ自らを嘲笑した。 彼に与えられた任務は南米エクアドル争乱に伴う邦人の生命安全の確保と、それに平行して行われるエクアドル沖における米海軍との部隊展開の上での共同軍事演習への参加である。これに参加する新鋭イージス艦の航海長。小栗にとってはこの上ない名誉であるはずだ。ではなぜ小栗は素直に喜べずにいるのか。 「洋介」 建物から出てきた男を小栗は呼び止めた。肌が浅黒く屈強な、いかにも軍人という風貌の男がちょうど正面玄関から出てきたところだった。男は立ち止まらず小栗の方に首をむけただけだ。小栗は尋ねる。 「お前もエクアドルに?」 男は手に持った書類を見せると 「ああ。さっそくスペイン語の勉強でもするかな」 と、素っ気無く答えた。小栗は驚いて返す。 「そうじゃないだろう。南米は紛争の真っ只中だ。武力衝突なんて日常茶飯事。そこに派遣されるって事は、だ。」 一呼吸を置いた。男はまだ歩くのを止めないでいる。小栗は追い掛けながら 「俺らが武力を持つってのが現実になったってことだぜ。お前はなんとも思わないのかよ。」 と両手を広げて問い掛ける。どうやら小栗という男には大きくジェスチャーをとりながら話す癖があるようだ。 さらに身振り手振りを加えながら続ける。 「俺らが向かう先は戦場だ。そこに入っちまえば俺らが自衛隊だ専守防衛だなんていったところで、こっちが武装している以上は糞の役にも立たねえ。武力を持つってのはそういうことだろう?なあ聞いているのか、洋介」 「康平」 男は立ち止まり小栗を制した。 「俺達は自衛隊員だ。この立場を選んだ時点でその問いの答えは出ている」 「答えは出ている、だって?はっ、ぜひ聞きたいな。どんな答えがあるってんだ?」 小栗は興奮した様子で男の肩をがしと掴んだ。沈黙の時が流れる。風が清清しく二人の間を駆け抜けていった。雪はまだ深深と降り続けていて、二人の間を埋めていく。 古くより日本では政変を迎える時、雪が降っていたことが多かったように思える。二・二五事件しかりである。 男はおもむろに口を開こうとした、が 「おやおや、航海長着任早々、副長に質問攻めか。その気合は出港まで取って置いて欲しいものだな、小栗三佐」 「これは、これは。そちらこそ相も変わらぬ皮肉っぷり。お元気そうで、菊地三佐殿」 と小栗はおどけてみせた。 男が話し始めるか否かの瞬間に細身の自衛隊員が口を挟んできた。 彼の名は菊地雅行。細身で容姿端麗。冷静沈着で理論派だがそれゆえ時に皮肉じみた事を口にすることも少なくは無い。小栗と同じ海上自衛隊三佐で今回のエクアドル遠征において参加自衛艦の砲雷長を務める者だ。 三人は防衛大学の同期で、それ以来の長い付き合いである。 「菊地お前もエクアドルへ?」 男は菊地に尋ねた。 「ああ。他の連中もあらかた任官を受けたみたいだな」 と答えると菊地は小栗に 「洋介の言葉の通りだ。俺達が武力を持つ事の云々を言う時期はもう過ぎただろう。あとはいかに部下に犠牲を出さず、与えられた任務をこなすかだ」 と突き放すように言った。 さて、この時点では菊地という男について十分に語られていないため語弊を招きかねないので記しておくが、決して菊池がこの自衛隊の武装という件に関して一切の懸念を抱いていなかった、と言うわけではない。 いや、むしろ自らの意思を心の奥深くに閉じ込め自衛隊員として与えられた任務を真っ当するという決意を固めていたという点で、小栗より辛い立場であったかもしれない。 事実、かつて防衛大学卒業も間近に迫った時期に、菊地は武力を持つ事の重責に悩み、任官拒否とそれに伴う自主退学を決意していた。結果、小栗らの説得もあり菊池は皆と同様に江田島での海上自衛隊の幹部候補生実習に参加し自衛隊への道を選んではいるが、小栗もそれを知っているためか、これ以上の討論を持ちかけようとはしなかった。 菊池も遠く明後日を見るかのように目を細めた。風がビュウと流れていった。また一段と風が強まったようだ。 「寒いな」 小栗はふと思った。何か肌寒く感じる。 何がだ。何が寒いのだ。雪がだろうか。風がだろうか。月も見えないこの空がだろうか。あるいは割り切ってしまっている菊地の心に触れた事か。 思うにそれは時代なのだ。雪を降らすのも、風を吹かすのも、月を隠すのも、そして菊地の心を閉ざしたのも。小栗はかみしめる、時代のせいなのだと。寒い時代なのだと。 では何時から、何処から寒い時代がこの国を覆ったのだろう。分岐点があるとすれば、それはどの時点だったのだ。そう、いったいどの時点からこの国は―――。 「康平、康平どうした」 自分の名を呼ばれて、小栗は思考が自分の思いも寄らぬ方向に進んでいた事に気付いた。俺は今、何故あんなことを考えていたのだ。 「少し考え事を、な」 と小栗が言うと、男と菊地は顔を見合わせ笑った。 「なるほど、通りで雪も降るわけだ」 はっはっと二人が笑っているのを見て小栗はしばらく呆然としていたが、やっと我に帰りからかわれたと理解すると 「この野郎」 と男に掴みかかった。 菊地はそれを見てさらに笑っている。雪の上で大の大人である二人が転げ回っているのも滑稽だが、こんな時にもじゃれあっていられる二人を見て、心強くもあり、またさっきまでの自分の稚拙な不安が馬鹿らしく思えてきたのだ。 そう、いたずらに不安がっても仕方があるまい。自分も口にしたではないか。もう、その時は過ぎたのだ。 歴史は動き出している。多くの聡き先人達が時代という途方もないレンガをより高みへ上がりたいがために積み上げてきた。そして今、自分も小さいながらも「戦後日本の新たな選択」というレンガを手渡され、それを積み上げようとする側に立っている。 もしこれを一つ間違えようものなら、歴史という名の巨大な「バベルの塔」は強固なものにはなり得ないのだ。重圧があってしかるべきではないか。今、俺の双肩に乗っているのは日本そのものなのだ。俺は天才でも英雄でも無い。ただの人間だ。容易に受け止められよう筈も無いではないか。そう、今はこれでいい。これでいいのだ。 転げまわっている間に、書類が男の手から離れていた。 雪の上に中の通達書がひらひらと舞い落ちていった。その紙面には――― 海上自衛隊 角松洋介二等海佐 第一護衛隊郡 護衛艦「みらい」副船長兼船務長を任ず お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.07.13 01:18:08
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