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カテゴリ:だんじり祭&左甚五郎
先日、昭和39年(1964年)に父親が今の会社(株式会社笹谷繊維工場)を設立してから、ちょうど設立50周年になりました・・・
そして今年は正に、昭和24年(1949年)に祖父が伯父と父親の3人で織物製造業を始めてから、ちょうど創業65周年になるのです・・・ 8年前に会社名をそのままに定款を追加して、織物業を完全廃業してからトランクルーム賃貸業に転業、そして5年前に不動産屋(宅地建物取引業)を始めて、内容は様変わりしていますが・・・ 時代に合わせて、「生き残る」というのを最優先してきましたから、先祖も許してくれるでしょう・・・ 会社設立50周年と、創業65周年・・・感無量です・・・ 親父も祖父も、天国で喜んでいるでしょうか・・・ 江戸時代末期に、曾祖父が宮大工の家系であった2軒隣りの本家の川岸「仁左衛門」(戦後、役所の間違いで川岸姓から川崎姓に変わってしまった / 4,500年前に三ツ松・左甚五郎の本家「岸上」から「川岸」姓に変えて分家し、名越に移住)から、次男であったために分家しました・・・ ※日光東照宮の眠り猫で有名な貝塚市三ツ松出身の伝説の彫刻師「左甚五郎」の本名は「岸上甚五郎左義信」で、本家争いをしないように、本家の「岸上」に対して、分家には「岸」を付けて「岸本」「岸谷」「岸田」「川岸」、日光東照宮を建立した一派は江戸幕府の要請で和泉地方から移住したという事で「和泉」に姓を変更しています。 その際、養子縁組で川岸姓から今の笹谷姓に変わったのです・・・ ひいひいひい祖父が江戸時代天保年間に水間寺の三重塔を建立した(棟梁)関係で水間村と関係が深く、その縁で曾祖父の父親(ひいひい祖父)がお夏・清十郎物語の水間のお夏の家(庄屋・楠右衛門)から名越の仁左衛門に養子に来たと言われています。 そして、楠右衛門と縁戚?であった跡継ぎのいない水間の笹谷吟蔵さんと、次男であった私の曾祖父が合法的に養子縁組をしたのです・・・ 曽祖父は生まれた時は川岸惣治郎、養子縁組後は笹谷勘松(戸籍上)、大正時代に建てたお墓には笹谷惣治郎とあります。 同じ人物でありながら、何故か?3つの名前を持っていたのです・・・ 父親から聞いた話では、戦争が始まる前の昭和10年頃に水間の奥の秬谷の契約農家に薪を買いに行くときに(当時は電気が無かったので)、父親と伯父さんをリヤカーに乗せて祖父が秬谷まで引っ張っていく途中必ず、祖父の祖父(ひいひい祖父)の生家である楠右衛門に立ち寄ってお茶と饅頭を食べて休憩していたと・・・ まァしかし、貝塚市を中心に近隣の市町村で、岸上、岸本、川岸、岸田、岸谷という苗字が多いのはそういった理由で、みんな元を辿れば、左甚五郎一族なのです・・・ そして当初は寺社仏閣や彫刻だけだったのが、その後だんじりの本体や彫刻にも左甚五郎一族の影響が波及していったのです・・・ 日本中見渡しても、お祭りの山車(だし)や神輿、だんじりで、総欅(ケヤキ)の全体が彫刻だらけというのは、泉州のだんじりしかありません・・・ 改めて考えると、こんな不思議な事があるのは、左甚五郎が「泉州の産」だった動かぬ証拠なのです・・・ 伝説の彫刻師「左甚五郎」とか、お夏・清十郎物語とか、世間では架空の人物や物語と言われているかもしれませんが、実は貝塚の山手「木島谷(清児~水間)」にあった本当の話なのです・・・ 本家や分家である私の家があるのが、動かぬ証拠なのです・・・ 町内に日本でも珍しい「塔筋(とうすじ)」さんという苗字が沢山ありますが(日本で名越が発祥の地?)、これも親戚の塔筋さんによると「仁左衛門一族が水間の三重塔を建立するのに名越村から何年も掛けて通ったので、名越というのは水間の三重塔への道筋だった・・・そこから、塔筋という苗字がついたんや・・・」という口伝が昔から伝わっているそうです・・・ 確かに非常に珍しい苗字です・・・「塔」と「筋」なんて、関連性や結びようがありませんから・・・ 塔筋さんご本人の説明で納得です・・・ 江戸時代の水間寺の三重塔や本堂の建立に、左甚五郎一族でも名越の川岸仁左衛門一族が大きく関わったとされ(棟梁で)、何十年も名越から水間へ大勢の宮大工集団が水間街道(通称・旧道)をゾロゾロと歩いて通っていた光景が目に浮かびます・・・ 名越にも沢山の川岸姓がありますが、岸和田城周辺の町に「川岸姓」の家が30軒ほど散らばっているようで、これも江戸時代に当時の岸和田城主岡部さんからの要請で名越から建築(宮大工)集団として移り住んだと言われています・・・ そのうち1軒の子孫の川岸さんが2年前にうちに来られて(ネットで見られて)、御先祖の捜索に協力させて頂きました・・・ 幸い、その方の名越にある本家が見つかりました・・・ おそらく岸和田の川岸一族も、500年前三ツ松から → 名越に岸上から川岸に苗字を変えて仁左衛門一族が分家して移住 → 100~300年前に名越から岸和田城周辺に川岸仁左衛門一族の一部が移住 というストーリーが考えられます・・・ 曾祖父の妻(曾祖母)が名越村唯一の武士(岸和田藩足軽)の石原家から嫁に来ていることからも、当時の左甚五郎一族の影響力が覗えます・・・ 宮大工家と士族のカップルは、名越史上初だったのです・・・ という事で、遠い遠い先祖の事を考えると、50年や65年なんて、短い短い・・・何の自慢にもなりません・・・ しかし、いつも思うのですが、あの先祖が建立した背の高い「水間の三重塔」はこれまでの地震にもビクともしませんでした・・・ よくも2,300年前に設計図面もなしに建てたのだと感心します・・・ 以前本家のお爺さんに聞いたところ、自分か一族しか知らない建築の「腕(技術)」を妬まれて暗殺されたそうです・・・ 先祖が「藤原朝臣」という官位を貰った宮大工であったという誇りと共に、そういう悲しい歴史があったとは、子孫として非常に複雑です・・・ しかし、貝塚にそういった建築や彫刻に拘わる長い歴史があったのかというと、元々今から1300年前の壬申の乱の頃に、近江から100人の建築集団が三ツ松に移り住んだのが始まりとされています・・・ それが元となって、その後左甚五郎が生まれたり四天王寺も葛城山の木を使って建てたと言われています。 葛城山麓で木を伐採し、近木川伝いに木を運び、大阪湾伝いに四天王寺のある大阪市内まで運んだと言われています・・・ 当時に思いを馳せると、想像を遥かに超えた壮大な建築計画が目に浮かびます・・・ そう言えば、葛城山の麓の村の名前が「木積(こつみ)」ですし、同級生に「伐栗(きりくり)」君というのがいましたから、この口伝も満更嘘でもなさそうです・・・ 右から2番目が父親(昭和6年頃) ここもポチッと押してください!ご協力お願いします! にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.09.12 07:45:29
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