カテゴリ:カテゴリ未分類
年を重ねるにつれ、簡単に泣かなくなってきた。
たとえば、ちょっとした言葉に心がささくれても、「けっ」とか思って、他のことをしているうちに忘れてしまう。 昨年七回忌を迎えた母や、いままで心を支えてくれた犬、猫に、「自分がしっかりしてないばかりに、何もしてやれずじまいだったなあ」なんて思っても、「これからだからみててね」と、すぐ切り替えたり。 泣かない。泣けない。 なのに、朝一番ちょーっと冷たい風が目にしみると、つつーっと涙が流れる。 どっちかというと笑える話をしてるときに限って、目に涙がたまって見えにくくなる。 これが、老化なんだろうか。 ドラマなど観ていても、そこ?ってところで感極まってしまう。 たとえば、前回のNHKの木曜時代劇「ちかえもん」 正統派で時代考証にうるさい人らは、あまり好まないであろうタイプの時代劇。 ちかえもんこと、近松門左衛門の話だが、笑いの要素多め。 たいてい毎回笑って観ていた私が、泣いたところ。 それは、人形浄瑠璃のシーン。 曽根崎心中で、いとしい女を手にかけたあとの「ふっ」と真に戻り、遠くを見やる男の人形の顔。 竹本義太夫役の俳優さんが汗だくで、額に血管を浮かせて唸るストーリー、セリフ。 そこから自分の感覚と想像力で、物語を咀嚼し、飲み込み、感じ入る人々。 その「あいまったもの」に、泣けてしまった。 同じく、前回放送の大河ドラマ「真田丸」 真田昌幸の弟に「そそのかされ」徳川を裏切って豊臣についた石川数正が、信繁に愚痴り怒鳴り散らすところでの、 信繁のセリフ。 「けれども、最後は自分で選んだこと。責めは自分にあるのでは。しかし先がどうなるかなど、誰もわからない。だからだましたり裏切ったりすることもあるでしょう。それを善悪ばかりで判断はできない。ただ、この先に何があるかわからないから、人は誰でも必死に生きているのだ」 以前の私なら、 「いいや! だますのが悪い!!」と思っただろうが、今回は泣けたし、納得いった。 そう、最後は誰でも自分で行く道を選んでいる。 結果、「こんなはずじゃなかった」と思うこともある。 それでも「はい、これが私が選んじゃった生き方」と、顔をあげてまっすぐ言えたら、それで上等。 そう思ったら、なんか泣けてきた。 「定休日なし、毎日牛の糞尿が顔だのヤッケだのに飛び散ってくっついてる、おしゃれくない人生さ。どうだ、マネできないだろうが」 そう思ったら、笑えてきた。 涙も笑いも、とんでもないときに出てくる。 そんな47歳の春。(といっても、昨日は猛吹雪 ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|