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アンジョンヨン

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2006.08.30
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カテゴリ:旅の小箱
 旅は文学を生み出す。

 古くは、芭蕉、種田山頭火などを思い出す。

 近代の詩人・北原白秋も旅から、想像をふくらませた。

 当時、白秋たちは日本の中の「異国」を求めていた。

 故郷・柳河(柳川)から上京し、早稲田大学予科に入学。

 そこには、若山牧水などもいた。

 幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく(牧水)という歌は有名。 

 与謝野寛・晶子のいた新声社(『明星』)に拠り、詩人としての習作期を過ごす。

 そこで、木下杢太郎など、すぐ後の<パンの会>の中心メンバーと親交を深める。

 いわゆる白秋の『明星』時代の末期を彩るのが、この天草への旅だった。

 やがて、寛とは食い違い、杢太郎たちと新声社を離れていくことになるが、天草への旅は『明星』の作風とは異なる『邪宗門』を生みだした。

 おそらく、若き白秋たちは時間を越えて、天草に隠れキリシタン時代の「異国」を見出していたのだろう。 

 そのような『邪宗門』の南蛮趣味は、<パンの会>の都会趣味、江戸趣味とひと続きで、それぞれ異国情緒(エキゾティズム)の香りを伝えるものとなっている。


以下は、http://osaka.yomiuri.co.jp/tokudane/td60731a.htm(読売新聞8月1日)

**************************************

キリシタン悲話伝える島清貧の神父訪ねた詩人ら5人

 99年前の夏のことである。北原白秋、与謝野寛(鉄幹)ら若手の詩人や歌人5人が、熊本・天草の大江天主堂に一人のカトリック宣教師を訪ねる旅をした。島原の乱以来、240年間もの禁教の時代に秘(ひそ)かに伝わってきたキリシタン悲話が、彼らの心をとらえた。旅をきっかけに、白秋は処女詩集「邪宗門」を出し、その異国情緒漂う作品が新たな詩の扉を開いた。歴史の光と影が交錯する〈祈りの島〉に、彼らの足跡をたどった。

山里の緑彩る純白の天主堂

 長崎半島の茂木港から天草へ向かうフェリーは、台風の余波で揺れていた。天草に着く。大江までは約32キロ。丸1日かけ、5人が歩いた道を車で走る。山肌が迫る道を40分、トンネルを抜けると、家が点在する山里の光景が広がった。そして、息をのんだ。グレーのドーム屋根に十字架を掲げた純白の大江天主堂が、緑の木々を背景に凛(りん)とした姿を見せていた。

 かつて、白秋らが目ざしたのが、この天主堂にいたフランス人神父ガルニエだ。1885年に来日、92年から大江に赴任。清貧の中で布教し、福祉の先駆けとして孤児院の運営に取り組んだ。後年、私財を投じてロマネスク調の天主堂を建てる。こんな神父の存在が、若き詩人らの耳にも届いていたのだ。

 合併前の旧天草町教育長を務めた濱名志松(93)は1939年、中国戦線で負傷し野戦病院にいた。看護婦がくれた文庫本「明治大正詩史概観」(北原白秋著)を読んで驚く。キリシタンに彩られた天草の風土と、山里の天主堂の異国の神父……。濱名のふる里・大江での体験から詩作の着想を得たことに、白秋が触れていた。

 翌年帰国し、教壇に戻った濱名は興奮冷めやらぬまま、5人の旅を調べ始める。戦後、唯一の生き証人となった吉井勇に手紙を書き、52年、大江天主堂脇に吉井の歌碑『白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿』を建てた。以後、ゆかりの地に文学碑を残す。

「ただ秘めよ ただ守れ」
 『ただ秘めよ、ただ守れ、斎(いつ)き死ぬまで』(白秋「天草雑歌」より)――。

 隠れキリシタンを祖先に持つ山下大恵(76)は、白秋の歌に幼いころの体験を重ねる。「物心ついたころから、知っとっとです。人に言ったり、ロザリオなどの“異物”を他人に見せたりしてはならない、と言い聞かされたもんです」と。自宅の神棚の裏には、ロザリオやメダイ(メダル)、マリア観音像などが隠されていた。

 幕末までは、天主堂近くの集落はほとんど、隠れキリシタンだった。「躊躇(ちゅうちょ)せず踏み絵に応じた後、はいていた草鞋(わらじ)を煎(せん)じて飲んだ、という言い伝えもあるとですよ」「昔は、肺病の掛け言葉で『宗病(むねや)み』と、差別もありました」。重い言葉も、口をつく。

 山下の案内で、やぶの中を分け入る。容易には立ち入れない場所に、隠れキリシタンの神父役「水方」が、洗礼の際に使う聖水をくんだ水源や、宣教師が生き埋めにされたと伝えられる地があった。

大江集落に現存するキリシタンの隠し部屋 小高い丘に立つ山下宅の柱や梁(はり)は、1826年(文政9年)に建てられた時のままだ。居間のふすまを開け、はしごを登ると、3畳ほどの屋根裏の隠し部屋に続く。江戸時代、ここで祈りの言葉オラショを唱えたという。「先祖は、どれほど怖い思いをして信仰を守ったことか。私なら、すぐに転んでしまうとですよ」。山下は苦笑する。

 『ああら切支丹伴天連の恋の秘法ぞ伝へぬる』(木下杢太郎)

 丘の上まで坂道を上り、大江天主堂にたどり着いた。兄2人がガルニエの身の回りの世話をし、自身も10歳のころ、ミサの手伝いでガルニエと長い時間を過ごした堀口静夫(76)が、そこにはいた。

天草灘に面する絶壁には、日本風の墓石の上に十字架をあしらった碑が点在する 「パアテル(神父)さん」。こう呼ばれ慕われたガルニエだったが、太平洋戦争開戦間もない1942年1月に亡くなるまで、母国の土を踏むことはなかった。「一人でフランス国歌を歌っているのを聞いたことがあるとですよ。寂しかったんでしょうね」。堀口は語る。

 昨年4月に着任した神父・牧山美好(35)が言う。「この教会には長年、信者が思いを込めた祈りが染みこんでいます。そんなガルニエ神父への思いをたびたび感じます」と。

 外に出て、天主堂のドームを見上げた。台風一過の青空が広がる。心がなぜか、やさしくなっていた。

文・青野 達哉





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最終更新日  2006.08.30 10:20:28
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