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カテゴリ:詩心の復興
今日で、朔太郎没後120年。
白秋の影響下で詩人として出発した朔太郎について、韓国でも研究する人が見られる。 白秋にとっても「郷土」が大きな意味を持っていたが、それは朔太郎にも言えることだろうか? 以下は、『朝日新聞』のサイトより転載 ************************* 朔太郎、いまなお新鮮 生誕120年で相次ぐ出版・文学展 2006年11月06日 詩人の萩原朔太郎が生まれて、1日で120年。関連出版や文学展が相次いでいる。 朔太郎は50歳の時、再婚の見合いの席で給仕の女性を見そめる。親子ほど年の違う大谷美津子だった。詩人丸山薫への手紙には「情火の炎々たるものに悩まされてる」とある。『萩原朔太郎 晩年の光芒(こうぼう)』(てんとうふ社)は、彼女の弟で詩人の大谷正雄が生前、朔太郎を回想した詩と散文などを、佐々木靖章・茨城大名誉教授の編集で収める。 萩原家との不和で結婚生活は長くは続かず、家を出てアパートで暮らす美津子のもとに朔太郎は通う。同書によると、朔太郎は部屋で大谷と二人の時、「月が鏡であったなら」という文句で始まる流行歌「忘れちゃいやよ」をギターで弾き語り、「こんなかなしいうたはないね」と涙したという。また1940年の皇紀2600年式典に招待された後、「日本は、いよいよ頂点に来たね、明治もここまでだよ……これからは下り坂だよ、どこまで落ちるか、それが心配だ」と寒々と語ったという。最晩年の時代認識を伝える貴重な証言だ。 故郷前橋市の前橋文学館では企画展「萩原朔太郎と与謝蕪村」が12日まで開かれている。『郷愁の詩人 与謝蕪村』で朔太郎は蕪村を再評価したが、詩人の那珂太郎さんが「独創的な誤解」と呼ぶユニークな解釈が面白い。たとえば「地車(じぐるま)のとどろと響く牡丹(ぼたん)かな」で、地車は大八車か祭礼の山車(だし)を意味するのに、地球が車のように回るごう音を幻聴してしまう。実証にとらわれず、直感的に本質をつかもうとする詩人の、面目躍如たるものがある。 会場では朔太郎撮影の立体写真が見られる。「浅草付近」という大正時代の作品では、冬枯れの境内に風船売りの老婆が独り。乳母車に結わえられて漂う風船にカメラを向けた孤独なまなざしには、「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」と詠んだ蕪村に通じるものがある。 高崎市の土屋文明記念文学館は26日まで企画展「萩原朔太郎・多田不二(ふじ)・岡田刀水士(とみし)」を開催中だ(火曜休館)。朔太郎と、親交のあった2人の詩人とを結ぶ「神秘主義の一系譜」をたどる。ここでいう神秘主義とは、朔太郎が口語自由詩を確立した時期の、理性にとらわれることなく感情や直感を重視する詩の方法論を指す。石山幸弘主席専門員は「理屈では割り切れない感情表現こそ詩だと考えた朔太郎の視点で、生活報告的な内容に陥りがちな現代詩を検証したい」と語る。 詩壇の最長老寺田弘さん(92)は朔太郎を直接知る数少ない一人。その詩業をたどる企画展「寺田弘の詩の世界」は、故郷福島県郡山市の市文学資料館で26日まで(月曜休館)。朔太郎を福島県内に招いて詩話会を開き、明治大在学中には顧問に迎えて駿台詩話会を発足させるなど親交を結んだ。 前橋出身の画家司修さんは詩画集『幻想』(勉誠出版)で、朔太郎の郷土望景詩「大渡橋」など16編に、油彩やテンペラ、CGなど多彩な技法による絵をつけている。「僕なりの郷土望景詩」と語るように、幻想性が加味された。朔太郎は今も新しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.11.09 16:02:24
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