「文学性」って、何ですか?
韓国語の文芸評論と詩を日本語に訳したものを審査するよう頼まれた。どんな点を見たらいいのか尋ねると、いくつかのうち「文学性」も、見て欲しいと言われた。じゃあ、「文学性」って、一体何だろう?日本で作品を「大衆文学」と「純文学」に分けて、「純文学」の方に振り分けられる「何か」であろうか?芥川龍之介と谷崎潤一郎は<小説の筋論争>で、それぞれ「詩的精神」と「プロット(構成)」を文学作品を評価する一つの指標として論争していたっけ?また、翻訳作品における「文学性」とは?堀口大学の訳詩がほめられたりするけど、日本文学の美意識に見合った形に翻訳されているということだろうか?その美意識も時代によって、文体が変わると変化するものだろうか?でも、翻訳文の「文学性」と読みやすさとは別の次元のものだろうし、、、また、「政治的」な意識が色濃く反映された作品は、「文学的」でないと言えるだろうか?いろいろな疑問がわく。以下は、『東亜日報』日本語版サイトより転載**********************[オピニオン]文学性 OCTOBER 28, 2006 07:06 「広い野原の東の果てに/昔話をささやく小川が流れ/まだらの牡牛が/ゆっくりと気だるく鳴くところ/そこが夢にも忘れられない…」。詩人・鄭芝溶(チョン・ジヨン)の代表的な詩「郷愁」だ。歌手の李ドンウォンが歌って愛唱されている。子供の時代の故郷の風景が切なく懐かしくする作品だ。鄭芝溶は新詩史に新しい時代を切り開こうとした先駆者だ。韓国の現代詩は彼から始まったと評価される。 ◆「まぶしいほど青い日は/懐かしい人を懐かしもう/あそこ、あの秋の花のところ/緑が疲れて紅葉するのに/雪が降れば如何に/春がまた来れば如何に…」。未堂(ミダン)徐廷柱(ソ・ジョンジュ)の「青い日」も切ない旋律が感じられる詩だ。取り付かれなくては書けないような先験的な詩人と評価される彼だ。その上、表現一つひとつが歯ごたえのある「詩語の料理師」だった。 ◆鄭芝溶と徐廷柱を除いては我が文学史が書けない。彼らに政治的・理念的な束縛をかけて、作品性と結び付けようとしている人がいる。鄭芝溶は「越北詩人」だといって作品そのものを評価してもらえなかった時代があった。今は逆に「抗日詩人」と崇められたりもする。徐廷柱は「親日派」と罵倒されている。民族文学作家会の会長を務めたシン・ギョンニム(71)詩人が痛烈に批判した。「越北した詩人は民族的抗日詩人、南韓に残った詩人は親日派という間違った認識が我が社会にあります」 ◆小説家ホン・サンファ氏は昨年7月、南北作家大会に参加したところ、白頭山(ペクトゥサン)天池で衝撃を受けた。そこでは「ヤンキーの占領軍の銃口の前で/資本家の犬の歯の前で…」(金南柱作「祖国は一つだ」)が朗唱された。ホン氏は「韓国文学」05年秋の号に載せられた「ディストピア」という文で、「南韓社会の左傾の実体を見た」と書いた。金南柱(キム・ナムジュ)のその「詩」こそ、文学性があるかどうか門外漢でも分かるはずだ。 陸貞洙(ユク・チョンス)論説委員 sooya@donga.com