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カテゴリ:思索
思索というものはとめどなくうごめくものだけれども、 それをすべて摘み取って、言葉に落とすようなことは、しない。 . 今は、しないように心がけている。 それを学んだ。 . 逆説的だが、以前は真逆… ただそれも、沈黙の時期が訪れて、何も語れない時期が数年は続くのだ。 . すべてを摘み取らなければ、その答えは得られないもの… . と感じていた。 . いわば、使命感に近いものがあった。 そしてこのどうしようもない感覚は抜け出せない。 . 周囲への違和感と、内面と外面で演じなきゃいけない世界観の圧倒的なギャップ でも、それは、悲惨では決してない。 . 以前よりよっぽどうまく生をやりくりできるようになった。 それは奇蹟的なことだが、あの下手糞で一本気な頃の自分は、貴重な時期だと感じている。 ここには、その痕跡がある。 . 自分が幸せをかみしめているすぐ横で、悲しみに暮れている人がいる。 それは彼らの不行き届きによるものでなく、全くの理不尽で不可抗力的なもの… それに気づいてしまう。 . それは大人になること…なる言葉なんかでは、くくれないほどの深みがある。 神の意志はどこにあるのかを問いかけたくなる誘惑にかられるし 生の意味を問いかけたくなるし 慈愛や慈悲といったものの真意を問いかけたくもなる . もう本質的に、無邪気に喜ぶことはできないんだってことだ。 . ここまで世界をごまかしなく分析したあと、釈迦の教えに出会うんだ。 それは強烈なはずで、ここに反応できない人は、まだ「気づいていない」んだ。 . そして、そこからも 離れるべきだと… 僕は感じる。 あるいは、離れるべき時期が訪れるのではないか… という感じがしている。 . . . 宗教的な友人に言いたいことは、彼らがその生を宗教的神髄に触れるがごとく全うしたとして 僕の境地とはどの程度かけ離れているか…だ。 . 人の生を踏みにじって、なお、至福を感じているならば、真逆だ。 どこかがおかしいのだ。 . でたとえ、そういう体験がなく、<安全に>宗教をやれたとしても 何かが足りないのだ。 . カルトの間違いを指摘することは、たやすく、賛同も得やすいだろう。。 過ちを後悔することも。でもそれだけじゃ意味はない。 . しかし、3大宗教の神髄を手放すことができない人たちもいる。何千年にもわたって。 そこに安らぎや救いや達観を得た人たちだ。多くいる。 . でも、それも、その世界を否定しないとしても、宇宙を包含してはいない。 宗教的な次元を超えた宇宙観というものがあり、宗教がそれを包含しているつもりでいて、たどり着いてはいない。 . ところで、課題はもっと身近なとるに足らないようなもの… そこまで大きな宇宙観を携えなくとも、生かされている事実 . 今年はもうすぐ終わる。 . 普通人は日々の生活に追われながら生きる。 酷使された労働者には、一編の詩が必要になることがある。 . . . Eili ...
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最終更新日
2019年12月29日 19時11分13秒
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