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カテゴリ:思索
. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって イエスの母がそこにいた。 イエスの弟子たちも、その婚礼に招かれた。 . . 葡萄酒がなくなったので、母はイエスに言った。 「葡萄酒がなくなってしまいました…」 . イエスは母に言われた。 「…私の時は、まだ来ていません。」 . 母はしもべたちに言った。 「この方が、あなたがたに言いつけることは、何でもしてください。」 . イエスは彼らに、「かめに水を一杯入れなさい」といった。 さらに、「さあ、くんで料理頭のところに持っていきなさい」と . 料理頭はそれを見て、このように感嘆する。 「どんな人でも、初めによい葡萄酒を出して、酔いがまわったころに悪いのを出す。」 「それだのに、あなたはよい葡萄酒を今まで取っておかれました…」 . . ヨハネ福音書 第二章 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ . 僕はこの一説は読んでいたにせよ、この奇蹟のシチュエーションについては 謎が多く、自力で読み解くこともできず、遠く頭を離れていた。 それどころか、奇蹟の演出にしてはベタすぎるそれは、今の時代にはそぐわないとさえ感じていた。 . . しかし、この一説は改めて読みとくと、奥が深いのである。 . このくだり、アリョーシャ(※)の捉え方は異なる。 まどろみの中で、この朗読を頭に響かせながら、彼は、このシチュエーションをありありと描写してゆくのだ。 . そして、今僕自身にもいろいろ思い悩み巡らしていることと照らし合わせると、妙に神秘的な響きを感じる。 . . . キリストが訪れたのは、悲しみの場所ではなく、 人間の喜びであり はじめて奇蹟を行って、人間の喜びに、力を貸したのだ… . 人を愛する者は、 人の喜びをも愛する… . 喜びがなければ、生きてはいけない。 . 真実で美しいものはすべて 常に寛大さに充ちている… . この時のアリョーシャの気づきで重要な点は . 救済者であるイエスは、 単にその恐ろしい偉業の為だけに、 この世界に降りてきたわけではないこと . に気づくことにある。 . 通常の素朴な人の営みの中にも、その喜びを理解できぬイエスではないことを「そっと」示しているのだ。 . ただし、奇蹟をむやみに信じることは、危険だ… その希望のほとんどが無残に引き裂かれている事実をみれば、これらの神話に類する話の多くは、 人につかの間の希望をあたえ、そして奪いとり、さらには神への信仰すら奪う結果となるからだ。 . 謎めいて奥行きがあり、この話の真髄に触れた気がするが、それを振りかざすわけにもいかない物語だ… . 彼がゾシマ長老から学んだことは、こういうことになる。 たった一本の葱を必要としている人に与えてあげること…それがいかに重要なことなのか それが、愛を波及させることにつながるのだ、ということ。 . それに対し、僕が学んだことは、 「葡萄酒がなくなってしまいました…」ということを正直に訴えてしまってもよいのだということ。 . . . ※)カラマーゾフの兄弟 . . . Eili ...
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最終更新日
2020年08月01日 08時16分31秒
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