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カテゴリ:博物館などの記録
先ずはこの縄文時代の土偶を展示した国宝土偶展に行って来た。 思ったより展示内容は少なかった。 それもその筈、平成館の方ではなく、本館の方で開かれていたので会場も狭い。
会場は当然暗い。 光で焼けるから暗くしている。
有名なザ・土偶と言える遮光器土偶も展示されていたので、其処は御目通りは出来たかな。 ドラえもんのギガゾンビの子分だったり、ゴエモンの土偶人だったり、ドラクエ4のラストダンジョンの近衛兵の土偶戦士だったり、有名だよなあ。
ただ、感じた事は、縄文時代に関わる遺物の分布は東日本中心であったということである。 矢張り、縄文文化は蝦夷文化なのである。
縄文時代の文化的な遺物の分布は、東日本より北を限りとし、西の限りは精々信州か濃州の山がちの国までである。 京都は西である。 当たり前だが、西とは九州や出雲を指していたが、これは京が今の山背国辺りに在った頃の話で、それよりも前は出雲や豊の国なんかにあったりする。 古墳時代はそれこそ列島全土に分布していたので、全く東西では異質の文化ではなかったという事である。
我々は、蝦夷文化と言う物を知らない、と言う事になっているが縄文時代をしっかり学べば蝦夷とは何かを知る事が出来る。 蝦夷は今のアイヌや北海道を指しているのだが、昔はそれどころではない。 京の都より東を蝦夷と呼んでいたのである。 都(京都)より北東は、山である。 だから山を背にして山城(山背)国、その山を越えた所が、越。 越は、越前越中越後と分けられているが昔は大雑把。
越しの道の奥は、文字通り陸奥(道の奥)である。 それこそ未開の地なのであった。 だがそんな訳無いんだよな。 蝦夷(えぞ)は嘗て蝦夷(えみし)と呼んだ。
発音は「え、みじ」だろう。 意味は「見る事の出来ない、見られない、見慣れない」である。 漢字では「カイ」と読む。 実はこれも他称でロシアでは「クリル」、支那では「クイ」と呼ばれておりもしやこれが自称なんて思えるのだが、実はオホーツク海周辺の諸部族の総称だったりする。 大雑把なんだな。
縄文時代なんて学ぶ必要無いと宣う輩もいるが、これはとても重要な事である。 日本がどのような成り立ちで出来たか知る上で重要だからだ。 埴輪とかは生贄の変わりで、土偶の後継である事は間違いない。 土偶はこんな名前だが、どの様に呼ばれていたか興味深い所。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.23 06:54:44
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