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2007/10/08
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テーマ:【雑文】(5)
カテゴリ:雑文?

 確実に低下していると思う。漢字を書く力が。といっても、漢字を書く際の筆圧が弱くなってしまったとか、そういう話ではない。ペンを持って紙に何かを書く時、漢字が、それも小学校で習うようなレベルの漢字が書けない事がある。つい先日の事だが、風という漢字が書けなかった。今、こうしてパソコンに向かってキーボードで「風」と入力する事は出来るし、読みが「かぜ」である事は分かる。しかし、いざペンを持つと手が止まってしまう。なんとなく「かぜかんむり」である事は覚えているのだが、どうしても細部が思い出せない。こういう事が頻繁にある。

 私が学生であればこれは問題だが、いや、というか学生じゃなくても問題だと思わないでもないのだが、私は学生ではないのでまあ良しとする。なにしろ学生というものはノートに授業内容を一生懸命に書く。たとえそれが全く理解出来ないものであったとしても、とりあえずノートに書く。授業中に食事をしたり睡眠をとったりする者もいるがそれは例外だ。私も高校時代は数学や簿記の全く理解不能な授業内容を、とりあえずノートに書き込んでいた。それが役に立った事は一度もなかったが。しかし、毎日のようにとりあえず書く事を繰り返していた若かりしあの頃は、小学校低学年レベルの漢字が書けないという事は滅多になかった。滅多に、という事は多少はあったという事だが、まあ、ど忘れというやつだ。気にしてはいけない。

 私の漢字を書く力、というか省略して「漢字力」が低下している原因はここにあると思う。小、中、高と、学校に通っていた頃は、黒板に書かれた全く理解不能な授業内容をとりあえずノートに書き写すだけという、非生産的とも思える行為に多大な時間を供する事によって、かろうじて人並みな漢字力を保っていた。しかし、社会人の端くれとなった今では、パソコンという文明の利器の恩恵を受けて、このような雑文を書く事はあっても、アナログにペンと紙で書くという行為をしなくなってしまった。紙に書かれたアナログな文章に比べてデジタルな文章は推敲が容易だ。消しゴムも修正液も必要ない。この利点を捨てて再びペンと紙を手に取る気にはなれない。

 こうして、パソコンによる文章編集の利便性を選択した私の漢字力は、今も低下し続けている。しかし、この必要なものと不要なものを取捨選択して現在の環境に適応していくという過程は、生物の進化に似てはいないだろうか。進化じゃなくて退化だろうとか、むしろ怠惰だろうとか、色々と見解が分かれそうなところではあるが、自分が退化していると考えると、なんとなくやるせない気持ちになってしまうので、ここはひとつ進化であると決め付けてかかりたい。

 と、このように唐突に自分進化論を提唱してしまう私だが、どうしても進化であるとは思えないのが言葉の進化というやつだ。といっても、私が気に食わないのは世間で騒がれている言葉の乱れの事ではなく、クローズなコミュニティ内での進化の事だ。いや、言葉の乱れに関してもどうかと思うものは多々ある。しかし、私が書いた文章を読めば分かるように、私も結構言葉が乱れているので強く言えるような立場ではない。

 問題なのはクローズなコミュニティである。日本語で言うと閉鎖的な群とかそんな感じだ。何が問題なのかと言うと、クローズなコミュニティ内では間違いが伝染するのだ。例としては交換日記というものがある。二人以上の人間が一冊の日記帳に一日交代で書いたりするあれだ。

 たとえば、太田さん、山口さん、渡辺さんの三人で交換日記をしたとする。そしてある時、太田さんが日記に「私はエリック・プランクトンが好きなんですよ」などと書いてしまったとする。それを次の日に読んだ山口さんが間違いに気付けば良いのだが、気付かずに「ああ、エリック・プランクトンって、あのヒゲでメガネの人だっけ?」などと思いつつもやはりプランクトンと書いてしまうとする。すると、その二人の日記を読んだ渡辺さんは「え? プランクトン? クラプトンじゃなかったっけ?」と思いながらも、二人ともプランクトンって書いてるし、と自分もプランクトンと書いてしまうのだ。これが間違いの伝染である。

 山口さんか渡辺さんが熱狂的なエリック・クラプトンのファンであれば「なにがプランクトンじゃボケが死なすぞコラ」と、冷静かつ友好的に間違いを指摘する事も出来るが、そうでない場合は三人とも間違い続ける事になる。まして、間違うだけでは飽き足らず、省略して「エリプラ」などと呼び始めるともはやそれは別のものである。なんだよエリプラって。天ぷらの一種か。御飯にのせてエリプラ丼にしてしまうのか。リーズナブルなお値段でお腹一杯食べられて貧乏学生に大人気なのか。

 閑話休題。

 ものが交換日記であれば、三人のおバカさんが出来上がるだけなのであまり問題はないのだが、それが看護師の書く経過記録となると話は変わってくる。経過記録というのは、血圧や脈拍、病状など、患者の状態を記録するものなのだが、夜勤と早番の看護師が書く事になっている。カルテとは別物だ。投薬、服薬の量に関しても経過記録に記載される。それゆえに間違いの内容によっては命に関る事もある。しかし、ここでもやはり間違いの伝染は起こるのだ。

 交換日記の場合は、太田さん、山口さん、渡辺さんの三人が書く事をやめればそれで終わりだが、経過記録の場合はそうはいかない。看護師が患者を虐待して首を切られたり、給料が安いと言って辞めたりしても、病院が潰れない限り、経過記録は存在し続ける。しかも、それが病院が設立された時から続いているのだから、その中で使われる言語は数々の間違いを経て乱れに乱れ、日本語と呼ばれる言語とは別のものとなっている。

 そこには、もはや文法すら存在しない。意味不明な略語や誤字脱字が跳梁跋扈し、単語一つにつき一つという異常な使用頻度の句読点が猛威を振るい、時間軸が糜爛したかのように内容が前後し、病的な表現のゆらぎは痙攣に似た様相を呈す。そして、その他のありとあらゆる間違いが猖獗を極めている。しかし、誰一人としてそれに疑問を持つ者はいない。まさにこの世の地獄だ。

 特に表現のゆらぎに関しては誇張ではなく、実際にかなり病的であり、ワンセンテンスの中で絆創膏の事をバンソウコウと書いたり、バンソコと書いたり、傷バンと書いたり、キズバンと書いたり、キヅバンと書いたり、傷テープと書いたり、キズテープと書いたり、キヅテープと書いたり、漢字を間違えて創判などと書いたり、それを発展させて創テープ、創バン、判創膏と、貴様ら、お母さんのお腹の中に頭のネジをダース単位で忘れてきたのではないか、といった具合にゆらぎまくっている。多彩な表現を使用する事で文章に彩を与えるとか、そういうものではない。純然たる「表現のゆらぎ」である。小学校からやりなおせ。

 この異次元言語の祭典と化した経過記録の中に踊る、かつては日本語であった言葉達は、新入りの看護師にも容赦なく感染する。爛れた文字列に拒否反応を示し、最初の一年間はまともな日本語を使っていたとしても、二年、三年と時が流れるにつれ次第に精神を蝕まれ、五年後には立派に閉鎖的な群の一員となってしまう。

 誰かが「間違っている」と言えればいい。しかし、新入りの若い看護師に、異様な迫力のおばさん看護師達の間違いを指摘する事が出来ようか。いや、出来ない。それによって引き起こされる、おばさん看護師達による陰湿なイヤガラセを考えると、あまりにもリスクが高すぎる。些細な事でおばさん看護師達の逆鱗に触れ、泣きながら辞めていった看護師は数知れない。全ての看護師が白衣の天使だと思っている男性諸君よ、それは幻想だ。良貨は悪貨によって駆逐されるのだ。

 新入りの若い看護師に出来る事といったら、せいぜい「あのババア共、若くて美しい私に嫉妬しているのね」などと思いつつ、せめて自分だけはとなるべく正しい日本語を使う事くらいである。遅かれ早かれ、将来的には自分も閉鎖的な群を構成する一要素となるであろう事も知らずに。まあ、なるべく正しく書いていても、おばさん看護師達による間違った訂正が入って、文章作法的に良くないとされる文章の典型的一例みたいな文章に改変されたりするのだから、早かれの方だとは思うが。

 こうして、閉鎖的な群はおばさん看護師達によってその存在をより一層強固なものとし、新入りの若い看護師をも自らの血肉として、強力な間違いの連鎖の中で奇形の言葉を生み出し続ける。というか、生み出していると言うよりも膿出していると言った方が正鵠を射た表現ではある。実際には膿んでいるどころか腐り果てているのだが。

 世間で騒がれている言葉の乱れに関して言えば、私は、ものによってはだが肯定的な態度をとっている。あくまでも、ものによっては、だ。妹が「ピンクい」だとか「オレンジくなってる」などと訳の分からぬ事を言い出した時は、脳天に手刀を振り下ろし随時修正していたりはする。体罰ではない。愛のムチだ。あなたが憎くてやっているんじゃないのよ。私はあなたに立派な人間になってほしいと思っているからこそ(以下略)。

 言葉の乱れとは言うが、言葉は常に変化し続け、時の流れと共にその形を変える。その時代に生きる人間にとっての使いやすい形に。それは、少なくとも使っている人間にとっては、進化していると言っても良いのではないかと思う。脳死看護師共の経過記録とは違い、それによって(少なくとも当人達は)円滑なコミュニケーションができるのだから。

 大真面目な顔をして言葉が乱れていると言う人もいるが、タイム・マシーンに乗って、百年前の過去に行っても、百年後の未来に行っても、そこで使われている言葉は、今私達が使っているものとは別のものだろう。ミカンが熟してオレンジくなっていたり、ピンクい桃がたわわに実っていたりといった訳の分からぬ文章も、百年後には誰もが使っているのかもしれない。

 川端康成の小説で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」と書かれているところも、百年後には「国境の長いトンネルを抜けると雪国で、夜の底がホワイトくなった」となっているかもしれない。そんな雪国は心底読みたくないが。

 こうして、特に意味もなくいつもの妙な敬体をやめて、妙な常体で長々と冗長な文章を書いてきたが、この文章を読み返してみて私は安心した。娯字、脱字、五編間は特になようだし、表現の、揺ぎも、(ぬけてる文字等特に無く)挙用範井の様子につき狗盗点の、仕様ひん度、も。特に門題なく、経過している。昨日昼食時内ようが前後してませんが“キジテープ剥た為に創判貼布る様子観られてます、これだけ正常な“日木語”を仕様のため私は(クローズ)コミニテーメンバーではないと思われるが様観にて対応しております、しかし、閑鎖的郡は、いまだ、感染刀強く、予断、を許さない、情況に、あり、明日、胃部、剣査の為(絶飲・絶食)にて今后も、おばかさん奸娯師達の弾圧に、も負けず、正い日本語を遣い、続けろ様怒力してゐこううと想いましたので努力仕様と想います





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Last updated  2007/10/30 05:26:41 PM
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