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2007/12/22
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テーマ:【雑文】(5)
カテゴリ:雑文?

 1%の才能と99%の努力。この言葉は、99%の努力も1%の才能がなければ無駄であるという意味らしいが、この世に1%の才能も持たない人間などいるのだろうか。仮にあなたが自分には1%の才能もないと思ったとしても、それは99%の努力をしたうえでそう思っているのか。もし1%の才能すらなかったとしても、100%の努力をすれば良いではないか。99%も100%もたいして変わらない。それでも足りなければ120%でも200%でも、足りない才能は努力で補えば良いではないか。

 私は才能という言葉が嫌いだ。私は才能という言葉が嫌いだ。私は才能という言葉が嫌いだ。いや、三回もくり返す必要はないと思うが、とにかく嫌いなのだ。大嫌いなのだ。好きな言葉は努力なのだ。どのくらい才能という言葉が嫌いなのかと言うと、才能という言葉を聞くと脊髄反射で襲い掛かったりしそうなくらいに嫌いだ。私にも理性というものが多少はあるから、本当に襲い掛かったりはしないが。たぶん。

 そもそも才能とは何か。辞書で調べてみたら、『物事を理解して処理する頭の働きと能力』と書かれていた。しかし、私は物事を理解して処理する頭の働きと能力を嫌っているわけではない。私が嫌っているのは『生まれた時から持っている能力』とか、そういう意味で使われている才能だ。というか、そういう意味で才能という言葉をやたらと使いたがる人間を嫌悪している。

 誰しも身の回りに一人くらいは「あの人には才能があるけど私には全くないから」などと言ってしまう輩がいる事だと思う。私の身の回りにも何人かいる。妹がそれだ。その妹がロクな努力もせず頻繁に「私には才能がないから」などと言うだ。私はこの言葉を聞く度にかなりイラっとくる。お前なんか隣の家に住む幼馴染のお父さんに毎朝起こされろ、とか思うほどにイラっとくる。ついでにラブコメ的手法でライバルが登場したりしつつも最終的には(幼馴染のお父さんと)結婚してしまえ、とか思うほどにイラっとくる。しかし、そうなると私は六十代後半のハゲに姉呼ばわりされる事になるのだから嫌だなあ、とか思って余計にイラっとくる。

 仮にあなたが血のにじむような努力の結果として、何か素晴らしい能力を得たとする。得たとしよう。そして、その素晴らしい能力を存分に発揮するあなたを見て、どこかの努力とは無縁の自堕落な阿呆が「才能ある人はいいよね~」などと言ったとする。言ってしまったとする。あなたならどうするだろうか。私なら、とりあえず足払いをかけて転倒させ、さんざん蹴りを入れてから財布の中の紙幣を抜くと思う。ついでに携帯電話のバッテリーを取り外して可能な限り遠い所へと放り投げると思う。バッテリーではなく携帯電話本体を。

 私は声を大にして言いたい。時にはメガホンや拡声器を使いながら、耳元で、鼓膜が破れるくらいの勢いで言ってやりたい。ロクな努力もせずに成果だけを求めるな、と。いや、努力してできなかったから才能がないのだと結論づけたのだろうとは思うが、どれだけ努力したのだ、と。誰かと自分を比較して相対的に自分には才能がないと結論づけたのだろうとは思うが、その比較の対象となった誰かと同じだけお前は努力したのか、と。仮に同じだけ努力していたとしても、その努力は見当外れな努力だったのではないのか、と。胸を張ってそんな事はないと言う事ができるのか、と。

 私は、『才能がないから』というセリフの大半は、根性がない人間特有のタワゴトだと思っている。お前は才能がないんじゃなくて根性がないんだよと言ってやりたいと思っていると言っても過言ではないと思っていると言っても過言ではない(ややこしい文章)。あるいは、見当外れな努力で自己満足していても成果など出るわけがないんだよと言ってやりたいと思っていると言っても過言ではないと思っていると言っても過言ではない(ややこしい文章)。そういう事を面と向かって言うと、睨まれたり恨まれたり呪われたり殺されたりするので、なるべく言わないようにしているが。努力したくても努力できないのだという反論もあろうが、それは意思が弱いからであったり、病気だからであったり、時間がないからであったりと、才能の欠如とは全く別の理由なのではないか。才能という言葉の意味を勝手に拡大してはいけない。

 才能という言葉ほど不適切に使用されている言葉はない(と思う)。というか私は、生まれた時から持っている能力という意味での才能というものは本当に存在するのだろうかと、疑っているのだ。才能と呼ばれているものの大半は先天的なものではなく、後天的な技術、知識なのではないかと疑っている。実際に、才能があると言われている人達の大半は『真似の出来ない優れた能力を生まれつき持っている人』ではなく、『努力の結果として技術、知識を習得した人』なのではないか。仮に努力した覚えがないのに何らかの能力を持っていたとしても、それは先天的なものではなく、生まれ育った環境や蓄積した種々の経験に起因するものなのではないか。

 某ギター雑誌に掲載されているギタリスト達のインタヴューを読むと、それは顕著だ。私はあの雑誌を百冊以上読んだが、ギターを弾く為に必要なのは才能だ、などと言うギタリストは一人もいなかった(と思う)。彼ら(まれに彼女ら)は、一様に努力の重要性を説いている。毎日何時間もひたすら練習を続けて、その成果として素晴らしいプレイがあるのだ。最初からイングヴェイのようにプレイできる人間などいやしない。

 オリンピックの選手の身体能力などは先天的な部分が多いのかもしれないし、音楽でもアラン・ホールズワースの手の大きさ、マイケル・キスクの声の高さなどは先天的なものだと思う。しかし、オリンピックの選手だって努力しているし、アラン・ホールズワースだってマイケル・キスクだって努力している。その努力を度外視して才能の一言で片付けてしまうのは、とても失礼な事なのではないか。

 ところで、私には自分でも驚くほど自信過剰なところがあって、自信過剰選手権なんてものがあったら、世界大会で優勝できるのではないかというくらいに自信過剰なところがある。いや、準優勝くらいはしそうなほどに自信過剰なところがある。いや、なんとか三位くらいにはなれたら良いなあと思ってしまうほどに自信過剰なところがある。いや、世界規模の大会であればかなりの強者が集うのであろうから予選突破すら難しいのではないだろうかと思ってしまうほどに自信過剰なところがある。とにかく自信過剰なのだ。

 どのくらい自信過剰なのか具体的に言うと、ギネスブックの記録も二つや三つくらいなら更新できると思っている。いや、四つや五つくらいなら更新できると思っている。いや、六つや七つくらいなら(以下略)。とにかく色々と更新できると思っている。量も質も同じくらい努力すれば、誰だってそれなりのレベルまでは行けると思うのだ。

 為せば成るという言葉には続きがある。『為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり』と。つまり、やらねえからできねえんだよ、と。たとえば、アフリカゾウを片手で持ち上げろ、などと言われてもできるわけがない。100メートルを2秒で走れ、などと言われてもできるわけがない。やってもできない。しかし、そんな極論を振り回してもしょうがないではないか。私は、物理的に不可能な事というのはあるが、努力次第では、他人にできる事なら自分にもできるのではないかと思うのだ(身長などの努力しても伸ばしようがないような要素に極端に依存しないものであれば)。その気になれば、オリンピックで金メダルをとるくらいなら出来そうな気がしている。そんなに簡単ではないという事くらい分かっているつもりだし、金銭的な余裕もないので挑戦はしないが。

 と、このように、才能という言葉に対して長々と懐疑的な意見を書き連ねている私ではあるが、自分の中に認めざるをえない才能が眠っていたという事に気づいた。気づいてしまった。それは、キックボクシングの才能だ。自慢ではないが、私はキックボクシングの試合で一度も負けた事がない。普段からトレーニングをしているわけでもないこの私が、だ。1%の努力すらしていないにも関らず、ただの一度もリング上での苦い敗北の味というものを味わった事がないのだ。これは才能と言っても良いのではないだろうか。

 まあ、キックボクシングなど一度もやった事がないのだから、一度も負けた事がないというのはあたりまえの話なのだが。





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Last updated  2007/12/22 09:25:53 PM
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