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ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。

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2009.02.10
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カテゴリ:帰国子女
私はフランスに5月に行ってその後すぐに近くの現地の小学校に放り込まれたのだが、フランスの学校は9月に始まって6月に終わるので、転入後1ヵ月半ぐらいで学年末を迎えたことになる。とにかくフランス語なんてもうなーんにも分からず話せずだったので、休み時間にお母さんごっこをやるといつも赤ちゃん役にさせられたのだが、それがすごく嫌だった。どうしてかというと、赤ちゃんの役は、うさぎ跳びをする時のようなしゃがんだ姿勢のまま歩かないといけなくて非常に疲れるからである。ということを、私の「フランス語が話せない時期のもどかしさ」のエピソードとして母が好んで話すのだが、私にとってもっと屈辱的で鮮明に覚えているのは、学年末の最後の日の出来事である。

状況から考えるとその頃には簡単なことなら少しは相手の言っていることが分かるようになっていたのだと思うのだが、まあ、それはそれで相手の言っていることが分かる分、余計にもどかしいわけで。

この学校では学年の最後の日に担任の先生にちょっとしたプレゼントを持って来ることになっていたのだが、その日、生徒がめいめいに包装紙にリボンをかけたプレゼントを手にしている姿を見て、私は初めてそういう習慣があることを知ったのである。知らなかったのだから仕方がないにせよ、私は先生にプレゼントを持って来なかったという事実をたいそう悲しく思った。そんな悲しい気持ちが顔に出ていたのだろう、そばにいた同級生の子が「どうしたの?」と私に尋ねる。しかし、その時の私には「プレゼントを持って来なかったことを知らなかったとはいえ悲しい」ということをフランス語で説明できず、プレゼントの箱を手にしている子供を指差すことしか出来なかった。すると、その尋ねてきた子が私にさらにこう聞いて来たのである。

「あれが欲しいの?」

これはヒジョーな屈辱であった。プレゼントが欲しいのかと思われた屈辱。そして、自分が自分の状況を説明できず、その質問に首を激しく横に振るしかなかったことに対する苛立ち。

あれから何十年も経ったが、まだ言葉も満足に話せない1~2歳の子供が要求が通らずにきーっとなる姿を見るたびに、私はあの日のことを思い出すのである。







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最終更新日  2009.02.10 11:28:41



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