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カテゴリ:帰国子女
これはワタクシが生後5ヵ月のアカンボの時の写真である。 私の顔はこれ以降、ほぼ変化がない。このまま大人になったという感じである。 どこから見ても、正真正銘の引目鉤鼻系ニッポンジンしょうゆ顔(←死語?)である。 それでアジアンビューティーと言われるのならまだしも、キレイと言われたのは これまでの人生において2度のみ、自分の結婚式当日と、嫌で嫌でたまらなかった職場を辞めた時の送別会において(よっぽどスッキリしてたんだろなー)、これだけである。 それ以外は、「ああ、あのちっちゃい人ね」と描写されたことはあっても「ああ、あのキレイな人ね」と言われたことはない。そういう、平凡な顔である。 ニッポンジン社会では、白人とのハーフのモデルがもてはやされるように、色白で目のパッチリした女の子の顔が人気である。 そのどちらでもない私は、かなり早い段階から自分の器量のイマイチさに関しては十分認識していた。 ところが、それがおふらんすでは結構珍しがられ、もてはやされたのである。 私から見ればお人形さんみたいに可愛い金髪で青い目の女の子が、私の黒くてまっすぐな髪を触りたがり、見知らぬおじさんやおばさんが、私の何とも東洋的な顔を可愛い可愛いと言ってくれたのである。 そこで私は子供ながらに気が付いたのである。 ところ変われば美の基準というのは変わる、つまり、ある場所で良しとされていることが他の場所でも良しとされるわけではなく、また、その逆も言えるということを。 小学校の高学年で日本に帰国してからは、外見については全くもてはやされることのない生活に戻ったが(笑)、おふらんすでの体験のおかげで、思春期の、あの、外見に特にこだわる時期に、特に劣等感を持たずにいられたのはラッキーだった。 私が今でも自分の一重瞼を二重に整形することもなく(笑)、髪も茶色に染めないのはこの体験によると断言して良い。 美の基準に限らず、海外生活をするようになった人が気付くのは、自国でそれまで当たり前だと思っていたことが、実はそうとは限らず、これまで、相対的な価値観によって、自分がどれだけのしがらみに縛られていたかということである。 国や人種や文化の違いを超えてもどこでも同じだということは、実はごくごく限られた数しかない。そして、それこそが、人間として大事にすべき価値観なのである。たとえば、マザー・テレサがどこの国の出身かを知らない人は多くても、その献身的な偉業はこの地球にある限りのすべての壁を越え、人々の心を打ったであろう。 大事にすべき価値観がごく少数であれば、自分の心の負担は非常に軽くなる。それまでよりももっと、生きやすくなる。 そして、それこそが、海外に暮らして語学が堪能になることよりも、ずっとずっと大切な自分の財産として、獲得するべきものなのである。 余談:子供たちはパパの血を色濃く引いてガイジン顔になったが、この斜め45度の雰囲気は2人とも私にそっくりである。 普段、誰も私に似ているとは言ってくれないのだが、おっぱいをやる時はこの角度の子供の顔を見ることになるので、そのたびに、あー私に似てるなー似てるなーと勝手に一人でニヤニヤしている(笑)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.02.27 04:35:49
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