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カテゴリ:旅
南極点へ、アムンゼンとスッコト隊 2冊の本から、続き
相変わらず当地は降雨の日が続いています。 昨日まで35日。今日も、さっきまで大雨でした。 気温は上がり、太陽も照るようになったのですが、雨は降り続いています。 今朝はもやもや天気。
今日の情報は、前回の続き 当方の好きな冒険、探検ものからです。 極地法、あまり聞いたことない言葉ですが、当方は若い頃よく聞いた言葉です。ヒマラヤ登山等でかつて行われた登山の方法。じつはこの方式、南極で使われ、8000mのヒマラヤ登山でも使用されています。 今回の2つの本には、久しぶりにこの極地法での南極点への旅が描かれています。 1910年、スコット隊、アムンゼン隊がイギリス、ノルウエィーの故国を出発して南極に向かった。 2つの隊は600km以上も離れ場所に基地を建て、越冬をしました。 越冬する前、2つの隊は南極点にむけ補給所をいくつか作ったのですね。 アムンゼン隊は南緯80度以南まで、ぎりぎりの厳しい自然の中で補給所を伸ばした。 補給所は翌年の南極点を目指す時に利用するあらゆるものを、事前に運ぶというもの。 スッコト隊も行っています。 基地がベースキャンプ、そこから目的地に向かいいくつかキャンプを作っていく方式です。 南極点への旅ではこの方式がとられたのですね。 今から100年以上前の実際行われた世紀の大事業です。
日本隊の写真
アムンゼンが書いた「南極点」の本に出てくる、白瀬中尉率いる南極日本隊の写真です。 アムンゼン隊と日本隊が遭遇して交流した記録です。 白瀬中尉は秋田県仁賀保出身。記念館が鳥海山の麓、仁賀保の町にあるようです。 先日、近くまで行ったのですが、入館はまだです。 装備が貧弱な日本隊ですが、その中で南極に向かう姿勢をアムンゼン隊はとても評価しているように書かれています。
では南極点へ、最初はアムンゼン隊です。 アムンゼン隊はこの「フロム号」にのって南極にやってきた。 中古の船でしたが、実は特殊な船。北極でも活躍した船。 小型のエンジンと帆船。昔の人はこのような船で氷の海を渡ったのですね。 日本の船はもっと小さく貧弱だった。
補給基地、白銀の世界に目印を作る作業 絶対見つけられるように作った。 これはすごいと思うんですね。 絶対みつけるようにしたんです。 生還するための食糧がここにあるんです。 アムンゼン隊の越冬基地内部での作業 外は氷点下50度の世界 100年前の南極越冬隊の写真ですよ。 そりを少しでも軽くする作業です。 乾パンの箱詰め作業 1つの箱に決められた数の食糧を入れるのです。 細心の注意作業。
全員が縫い物作業 全ての衣類を使いやすく丈夫に縫い直し作業を行った。 いずれも越冬隊の基地内写真
越冬隊の基地写真、シンプルですね。
アムンゼン隊、南極点へ出発、 犬そりを使用
こうしてアムンゼン隊は1911年、10月19日、基地を出発 12月14日に南極点到達 1912年1月25日、基地に帰る
スコット隊 1911年11月1日、基地を出発 スコット隊はこの当時の動力運搬機を南極に持ち込んだ すぐ壊れて使用できず
スッコト隊は犬橇を使用しない 馬を南極に運んだ。 馬は大量の干し草を食べる 基地を出発して間もなく、使えないのがわかり射殺 これも大きなつまずき
結局荷物は人間が運ぶ。 人力による運搬 スピード、運ぶ量が犬橇と比較して格段に弱い スコット隊、1912年1月17日、南極点到達
3月10日、最終テント内でスコット隊長絶命 全員死亡 あと20km先には補給基地があったが、力尽きた。
アムンゼン隊のそり 2つの隊による南極点到達の結末は大変ショッキングな結果となった。 何故アムンゼンは成功し、全員元気であったのか どうしてスコット隊は全員死亡したのか、 2冊の本にはその原因がいっぱい語られている。 アムンゼンはスコットたちのことは書いていない。 比較もしていないのですが、彼らの成功の理由は? 越冬隊の基地内での尽きない準備作業が物語るのではないでしょうか。 徹底した準備が厳しい南極点到達を成功させた。 おわり
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