断眠 人は眠らないとどうなるか? 山田鷹夫
今日は欲望とオサラバした山田鷹夫さんの断眠を紹介したいと思います。山田鷹夫さんとの出会いは壮絶でした。不食という本で彼の葉っぱ一枚の姿を見て、これはと思い、即購入しました。その続編が断眠というです。まずは断民のための五箇条を紹介しましょう1 大好きに生きる2 食べない3 初期覚醒に目覚める4 5分の仮眠を活かす5 来たまま起き眠る賢い学者さんならば、科学的に紹介するでしょう。文学者ならば、素晴らしい表現を使って紹介するでしょう。しかし、山田鷹夫にはそんな知識も表現力も無い。だから、要約したところでたいしたことを言っているわけではない。内容はいたってシンプル。だが、それを裏打ちする経験・込められた想いは他の本とは別格です。だから、この本を読めば、自分も睡眠時間を減らせるようになるというようなハウツー本では決してありません。この本を読めば、良い刺激になる。こんなトンデモヤローがまだいたのかと嬉しくなる。彼は言う。無為快感何もしないという喜び。今までの人間の行為のほとんどは満足を満たすための行動自意識からの行動スッキリしたいだけの行動であった。山田鷹夫はそんな低次元な行動からは卒業したかった。もっと言うと、そんな低俗な人間からは卒業したかった。だからこそ、人間の三大本能に立ち向かった。人間を超えた精妙体になりたかった。食う、寝る、やるの先にあったものが無為快感であった。何もせずとも、快感。彼は本能に打ち勝ったのかもしれない。その結果、新たな境地を得たのかもしれない。しかし、本当に彼は勝者なのだろうか?例えば、ケンカをした時、どちらが勝っても2人は同じレベルである。2人は同じ土俵の上に立っているからである。ケンカが大きくならないように負けることができる人がいる。殴られながらも謝ることができる人がいる。ケンカに負けたと見れば、彼らは勝者ではないかもしれない。しかし、彼らはケンカという土俵の上に立たなかった。相手も見栄も暴力も相手にしなかった。そういう人は勝者ではない。超者である。ケンカに勝ち続ければ、見えてくるものがあるのかもしれない。頂上に立てば、何か見えるのかもしれない。その先に真実はあるのだろうか?一部の人しか見ることのできないものが真実なのだろうか?最後の最後に見えるもの、それは空絶望ではないか。勝つ必要も負ける必要も無い。その土俵から降りてみること。本当の戦いは自分との戦いとよく言われる。自分に負けないことではなくて、しがみついていることから手を離せるかどうか。しがみついている人には恐れがある。手放せる覚悟のある人には恐れはない。山田鷹夫はこれから先もいろいろな本能に立ち向かっていくだろう。そして新たな境地を紹介してくれるだろう。それは確かに面白い。僕も好きだ。だが、自分がそうなりたいとは微塵とも思わない。次から次へと出てくる戦いをする必要はない。ドラゴンボールの世界から卒業しなければならないのだ。樟下村塾のホームページにも書いてあるので、そちらをご覧下さい!樟下村塾