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カテゴリ:エッセイ
こんにちは イエス様が十字架にかかれたのにGood Fridayっておかしいなって思うかも知れませんが、この言葉はそのとおりなんです☆ 私たちはすべて罪を持っています。罪って警察につかまることだけではありません。私たちの考えている罪と聖書で言っている罪って違うんです。 聖書で言っている罪とは、「神様との関係の中でどうなのか」 ということです。 神様を悲しませること、それは全部罪です。そして何よりも神様を認めないこと、これが罪なのです。 「神様を悲しませたことなんて一度も無い」って胸を張って言える人は誰もいないと思います。ぼくもまだお会いしたことは無いです。 でも神様は私たちを本当に愛しておられます。そして私たちを救いたいと願われています。 でも神様は究極的に正しいお方だから罪を見逃して「ま、かわいそうだから大目に見てあげよう」って出来ないんです。 もしそれやったら神様じゃないですよ。 でも私たちを何とか救いたい。。。 そこでご自身の一人子であるイエスさまを人間としてこの地上に送り、そして私たちのその罪を全部一人受けられ、私たちの罪のためのいけにえとして十字架にかかられたのです。 つまりイエスさまは私たちの罪と結び付けられて一つとされ、十字架の上で犠牲の献げ物となられたのです。 イエスさまが十字架にかかることによって罪は全部赦され、しかも聖書によるとその罪自体がもう神様の前に無いものとされたと書かれているのです。つまり神様の記憶からポーーンと抜けて完全になくなってしまったのです。 でも誰でも彼でもでは無いです。このイエス様の十字架が私のためだと受け取り、「私の救い主」としてイエス様を受け入れるとき、全部の罪がもう無いものとされます。 これが普段ファッションの一部としている十字架です。 そしてこの素晴らしさがわかればわかるほど、Good Fridayだなぁって実感してきます。 ☆★☆★☆★☆★☆★ さてさて、不思議なのが日本語でのイエスさまが十字架にかかられた日の名前。英語と全く逆なんです。「受難日」って言います。 これは別に英語圏の人たちは明るくて、日本人は暗いとかそういうことじゃ決してないです。 両方とも正解なのです。私たちの側から見ればGood Friday、父なる神様の側から見れば、ご自身の一人子を犠牲の献げ物とされて助けることが出来ない悲しさで、受難日です。 また昨年上映されたパッションの映画を見ると、やっぱり受難日だなぁって思わされます。 ともかくこの日、特にイエスさまの十字架を思い巡らす一日とされることをお勧めします。 ぼく自身も十字架を思い巡らす時としたいですね。 ではでは お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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