テーマ:社交ダンス(8688)
カテゴリ:旅行記
<出島>
大航海時代、ポルトガルは海外貿易によって国力を増し、日本にもやってきて鉄砲やキリスト教など様々なヨーロッパ文化をもたらしました。 ポルトガル商船には必ず宣教師も乗って来て、キリスト教の布教活動を行ったんです。 時代が江戸に変わって、幕府はポルトガル人を危険なカルト教団だと思ったんでしょうね。 1634年に長崎の岬に扇形に突き出す人工島を作らせ、2年後に完成すると、ポルトガル商人全員の住居をその出島に移させました。 お金を出したのは幕府ではなく、出島町人と呼ばれた長崎の豪商25人です。 日本初の人工島、今は埋立地の中に埋没した形になっていますが、当時の建物などが復元されて観光スポットになっていました。 この橋を渡ると、入場券売り場と入り口があります。 ヨーロッパの勢力図が書き換えられてオランダが国力を増すと、対ポルトガル貿易が終わり、オランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われるようになりました。 島原の乱が起こり、幕府としてはキリスト教がらみのポルトガル人を早く追い払いたかったのかもしれません。 オランダ人は商売がメインで宣教師は連れてこなかったんでしょうかね。 ポルトガル人は国外追放となり、出島にはオランダ人が住むようになります。 日本が開国するまで200年以上に渡って、西欧に開かれた窓はここだけになりました。 シーボルトがやって来たのは1823年、開国の36年前です。 優秀な医者だったので特別に出島から出ることを許されて、丘の上に家も建てました。 太秦映画村やワープステーション江戸のように撮影のセットとして見栄えよく作られたのではなく、素材にまでとことんこだわって復元されています。 出島で一番偉いオランダ人はカピタン(多分キャプテンのオランダ語)で、シーボルトはその役職の人の下で働く担当医として派遣されていたわけですが、カピタンの家が超豪華なんですよ。 大使館みたいなものだったんでしょう。 日本側の監視役として乙名(おとな)と言う役職があって、その詰所もありました。 一番多いのは輸出入品を収蔵する蔵ですね。 建物についてご興味ある方はこちらをご覧ください。 細部に渡って詳しい説明ボタンがそこかしこに用意されていて、全部聞いていたらかなり時間かかると思います。 缶に入ったラスク(一番上の写真)をお土産に買ってきました。カステラを薄く切ってラスクにしてあるお菓子、美味しかったです。 楽天でも売ってました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/09/11 06:21:11 PM
コメント(0) | コメントを書く
[旅行記] カテゴリの最新記事
|
|