「みんなさみしんじゃない?返事が来れば嬉しいし」
友達とメールで会話していてブログの話題となった。個人的な日記であるブログが人と人とのコミュニケーション手段として大いに発展していることに、何でだろう?と質問され、漠然とこう答えた。「みんなさみしんじゃない?返事が来れば嬉しいし」機動戦士ガンダムの映画「めぐりあい宇宙編」の主題歌で、井上大輔が歌う歌詞のなかにこんなフレーズがある。Yes, My Seet , Yes, My sweetest I wanna get back where you were 愛しい人よ もう一度Yes, My Seet , Yes, My sweetest I wanna get back where you were 誰も一人では生きられない(作詞 井荻麟、売野雅勇)この歌詞のフレーズや似たような言葉を聞くたびに、一人で生きてる人っていっぱいいるんじゃない?一人でも強く生きろよ!!とつい思ってしまう(笑)。極端な例を出すと、旧日本軍で海外へ出兵し戦後数十年たって帰還した横井さんだって、小野田さんだって一人で生きてたじゃんって。多分こんな疑問はこのフレーズに言葉の選び方の安直さを感じるのと、みんながそうだと決め付けてしまうことへの反発っていうのがあるんだと思うけど、まぁ、考えさせられるフレーズではあると思う。「生きる」という言葉の定義・範囲を考えてみよう。「生きる」という言葉は文字通り、「死ぬ」ことの反対の意味として、生きているとか、生存しているとかっていう意味でも使われるだろうし、生活するっていう意味でも使われるだろう。ただ漠然と日々を生活するのも生きることだろうし、ジャングルの中で飢えに苦しみながら必死で生きるものもちろん生きることだ。では、「今、お前は生きているか?」と問われたとしたら・・・・答えるのにちょっと躊躇してしまう。素直にYesって言えないかもしれない。黒澤明監督の「生きる」という映画がある。定年前にして自分の死期を知った市役所の課長が、目が覚めたように自分がすべきことを自覚し、小さな公園を作るために奔走するという映画なのだが、この映画のタイトルで使われている「生きる」という言葉は、ただ流されるまま漠然と生きるという意味ではなく、自分の真理に従い、自分が生きている意味を突き詰めた結果として「生きる」というような意味が込められていると思う。「いまを生きる」という映画もあった。”今を生きる”というような使われ方は、一生のうちで二度とは戻ることのない「今」という時間を自覚し、後悔せぬよう精一杯、自分に正直に生きようとか、そういった意味で使われることが多い。「生きる」という言葉の定義をそんなところまで拡張して、”誰も一人では生きられない”というフレーズをもう一度考えてみよう。黒澤明の「生きる」にしても、”今を生きる”という使われ方にしても、そこには必ず他者との関わりがあると気付く。他者と関わることにより自分を知り、自分と関わった他者が、それをきっかけとしてなんらかの発見をしたり、「生きる」ということは他者と関わることではじめてその意義を持つものなのかもしれない。「みんなさみしんじゃない?返事が来れば嬉しいし」同じ趣味の人と会話したいとか、普段想っていることを共感してもらいたいとか、それによって新しい自分を発見したり、感動したりと、無自覚であっても多くの人が他者と関わりたい、「生き」たいって思っているのだろう。その願いに従って、コミュニケーションの手段はこうして形を変え発展してくのだと思う。メールで会話した友達も、そのうちブログをはじめと思う。