カテゴリ:ヒロ伊藤流?仏弟子修行
高度成長やバブル時代に畏れを知らなくなった人の心、バブル崩壊後の長い冬の間に凍えた心は、格差社会の拡大によって僅かに残されていた心の潤いも吹き飛ばしてしまったのでしょうか。心に闇を抱えているかぎり、人は真の幸福を得ることはできません。心の汚れを払い、曇りのない清浄な心を取り戻すために、正しい宗教と信仰は今なおその効力を失っていないと、拙僧は確信しています。 悲劇を二度と繰り返さないように。幼子の魂が悲しみの世界から救われますように! 以下、***2006年05月20日掲載「神も仏もいないのか?」より*** またまた、幼い子供が犠牲になる事件が起きました。何の罪もない子供を、己の憂さ晴らしの欲望や快楽、恨みのために殺害する。許すことの出来ない極悪非道の仕業です。しかし、こうした犯罪は一見普通の人間が、ごく自然に行うことが多いのです。何故なら、犯人の心が無明に占拠されているから、今風に言えば、悪魔の声に導かれているからです。以下は、2004年11月23日に記したものです。もう一度ご紹介します。 *********************************** 小学一年生の女の子が無残にも殺されてしまった。何の罪もなく輝く将来をもったはずの子供が、恐ろしい目にあって死んでいかねばならないなんて、神も仏もいないのか?誰もがそう思いますよね。新潟の地震でも多くの子供たちが死にました。 一方では、不惑(40歳)を過ぎた男が惑い違って、20代の若者たちを道連れに、例の練炭中毒集団自殺をしています。自殺はやはり犯罪です。この世で最も大切な命を奪うという点では他人を殺めるのと同じだと知るべきです。残された家族や友人たちにも、心に大きな傷を負わせます。 神も仏もいないのか?....... 実はこれは、全ては創造神が造ったというバラモン僧に対するお釈迦様の言葉です。 「誰も神を見たものはいない。人々が神について語っているにすぎない。。。 神が世界を創造したことは誰にも証明できない。世界は展開してきたのであって創造されたものではない。。。彼によれば、宗教の核心は人間の神に対する関係にあるのではなく、人間対人間の関係であり、宗教の目的は、総てのものが幸せになれるよう人は他人にどう振舞えば良いのかを教えることにある。」 『ブッダとそのダンマ』よりB.R.アンベードカル著 山際素男訳 光文社新書 全て人間は尊い命を与えられていると、お釈迦様は言われました。自分の命を愛し尊重するならば、当然他人の命も愛し、尊重しなければならないと。人は誰でも、他人に迷惑をかけたり、傷つけたり、悲しませてはいけないのだと、心に言い聞かせるべきです。全ては心の振る舞いであり、心をコントロールすることが、社会に生きる人間にとって大切なことだと思います。 「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こしなさい。」 願わくば幼くして命奪われし子らの前途に光明を照らしたまえ ご冥福をお祈り申し上げます。合掌 観学院称徳 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年09月27日 20時55分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[ヒロ伊藤流?仏弟子修行] カテゴリの最新記事
|
|