怒りは絶ち難いけれど
「心が静まり、身が整えられ、正しく生活し、 正しく知って解脱している人に、 どうして怒りがあろうか? はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。 怒った人に対して怒り返す人は、 悪をなすことになるのである。 怒った人々に対して怒らないならば、 勝ち難き戦にも勝つことになるであろう。 怒らないことによって怒りに打ち勝て。 善いことによって悪いことに打ち勝て。 分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て。 真実によって虚言に打ち勝て。 (中略) 怒らぬことと不傷害とは、常に気高い人々のうちに住んでいる。 怒りは悪人のうちに常に存在している。」 (『感興のことば ウダーナヴァルガ』第20章17,18,19,21 中村元訳 岩波文庫)読者の皆様、いつもコメントくださりありがとうございます。昨日のご質問の答えになるかどうか分かりませんが、昨日の言葉の後に本日の言葉が続きます。簡単な言葉なので意味の解説は必要ありませんね。「不傷害?」とは、他人や生きとし生けるものを傷つけないという意味でマハトマ・ガンジーの非暴力主義はここから発しています。仏教に限らず、インドの思想として根付いているはずのものです。上座部仏教でよく読まれている南伝経典にも以下のように説かれています。「どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。 怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。 あたかも母がたった独りの我が子を、命懸けで守るように、 そのように全ての生命に対しても、無量の慈しみの心を育てることです。 (略)また、一切衆生に対し、怨みの無い、敵意の無い、慈しみの心を育てるように。」 『慈経 メッタ・スッタ』第6、7、8偈 A・スマナサーラ訳)何れにしても、怨みの無い、敵意の無い、慈しみの心を育てることこそが仏の道というか、人の道だということを、お釈迦様は繰り返し説かれているのです。*******ここで誤解の無いように申し上げたいことがあります。拙僧はこのブログを通して仏教を広めようと思っているわけではありません。30年前フランスに禅を広めた曹洞宗の禅僧である弟子丸泰仙師の言葉をご紹介します。「私がここに来たのは、皆様に禅をひろめに来たのではない。 皆様の信仰がより深いものであるよう、その手伝いに来た。 只座して、自己をみつめ、より崇高なものが見つけられたら、 私は大変嬉しい。」「仏教でもキリスト教でもいい。『信仰』だけでなく、そこから『生と死』を学ぶことで、 生命の大切さがわかっていく。」 (『禅僧の父と共に』魚谷三千代著より)偉大な先達の言葉を借りて、拙僧の思いが伝われば幸いです。生きとし生けるものが幸せでありますように!合掌 観学院称徳