藤田嗣治といえば、モジリアニやピカソと親交のあるエコール・ド・パリ(パリ派)として、世界的な名声を得た、けれど人間的には少しエキセントリックな画家として知られている。わたしが最初に彼のことを知ったのは、フランスに帰化し、ランスに礼拝堂を作っているとの芸術新潮の記事であった。まだ中学生だったわたしは、後年彼の絵をさまざまの美術館で知るものの、白い背景に乳白色のヌードの女性といったエロチックな図柄が多く、ちょっとエッチな絵を描く画家くらいにしか思わなかった。
しかし、彼の帰化については、なにか戦後の日本の抱える事情のあること、そしてそれが戦争礼賛絵画というものにつながっていることが、だんだん解ってきた。
ものの本によると、連合軍の占領下において、戦争犯罪ということを明確にし、日本人が連合国に対し二度と戦争を起こさないよう洗脳する方策がいろいろと採られ、戦争を礼賛した人々の公職追放等があった。その画家というジャンルでの戦争責任を一身に背負わされたのが藤田であり、それが彼をフランスに帰化せしめることとなった、ということであった。
藤田は、フランスで受洗し、フランス国籍を取得、レオナール・フジタと名を変えた。彼は、わたしが彼を知ったランスの礼拝堂を完成させて数年の後亡くなった。このことを知った頃、五木寛之氏の「デラシネの旗」という小説が発表され、流氓という概念にまだ自分の基礎の定かでないわたしは、そこはかとない憧れを抱いたものである。実人生などというものがどのようなものか、まるで思いも至らない者の若気の至りであった。
閑話休題。とにかく、この祖国追放により、藤田夫妻は古都ランスでフランス人として暮らし、藤田亡き後夫人は、自分たちを追放した国での藤田の展覧会の開催をかたくなに拒否しており、今後も栄光のエコール・ド・パリの画家藤田の回顧展は、日本においては開催されることは難しいだろう、ということが定説となっていた。また、よし開催されたとして、戦争画は、GHQにより接収され、その後東京国立近代美術館に無期限貸与品として返却されたものの、その何点かが常設展として細々と展示され、終戦の日が近くなったころ、テレビの特集として時たまマスコミを賑わせる程度で、その存在を知る人のほうが少ないという扱いを受けており、傑作とされている藤田の戦争画も、この絵画群を取り巻くデリケートな事情から絵画として評価されるよりもひとえに政治・歴史としての制約を受け、この展示なくしては、藤田の全貌を語ることのできないものであるにもかかわらず展示されることなどないだろうと、あきらめていた。
それが、この3月に、しかも、封印された戦争画を含めての大回顧展であるという!開催を待ちかねて、勇んで美術館へ向かったのであった。