幕末期、土佐の国に一人の絵師が居た。絵師金蔵略して「絵金」である。高知城下の髪結いのせがれに生まれ、若くして絵の才能を発揮し、狩野派の修行を積み、藩の重役のお抱え絵師「林 洞意」となる。通常狩野派の修行は10年が標準であるところを、金蔵は3年でこれを終えた、というからその画力の程が分かるというものだ。現に僅かながら現存しているその頃のデッサンを見るに、その自在の筆先がうかがい知れるものである。林 洞意の画は、評判を呼び、画の注文はひきもきらなかったという。
その、順風満帆と思われた画業が、突然断ち切られる。城下の古物商の勧めに応じてものした探幽の模写に、その古物商が探幽の落款を押して売りに出したのである。自分の落款を押せば模写となるものを、探幽の落款が押されれば、贋作である。
この贋作が問題となり、洞意はお抱え絵師の座を逐われ、その画の多くは焼かれてしまったという。その後十年、金蔵の行方は杳として知れなかった。旅の絵師金蔵として諸所を放浪したとも、芝居小屋の座付き絵師として、書割や絵看板を描いていたともいわれている。
十年後金蔵が姿をあらわしたのが、現在の赤岡町であった。ここに嫁いでいた叔母を頼り、町内の米倉をアトリエに、寺に奉納する絵馬提灯や、芝居の名場面を描いた屏風絵を描いて、生業としたという。