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カテゴリ:旅
久しぶりのブログ更新です。 確定申告作業のため、しばらく遠ざかっていました。 久しぶりのウィーン編、ウィーンといえば、この人 オーストリア・ハプスブルグ帝国の中興の祖マリア・テレジア 女帝として帝国に君臨し、 相思相愛の夫君フランツ=ロートリンゲンとの間に、16人の子をなし 死後もなお、カプツィーナー教会の皇帝墓所で、 ダブルの棺で夫とともに眠っている偉大なるオーストリアの母 (奥に見えるレンガ色の建物がカプツィーナ教会、手前の通りは、ケルントナー通り) しかし、その玉座は、けっして安逸なものではありませんでした。 (ウィーン美術史博物館に残る11歳のマリア・テレジアの肖像)
1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が、跡取りの男子がいなかったため 長女マリア・テレジアをオーストリア王位につけたところ これに、プロイセン、バイエルン、スペイン、フランスなどが異を唱え、戦争となる これが有名な「オーストリア継承戦争」である。 オーストリアは、イギリスの支援を受けたものの、ほとんど孤立無援 一時は神聖ローマ皇帝の座をバイエルン選帝侯に奪われるほどの劣勢であったが その後次第に盛り返し、 1745年に神聖ローマ皇帝カール7世(バイエルン選帝侯)が亡くなった後 夫のフランツ=ロートリンゲンが神聖ローマ皇帝となり 領土の割譲は避けられなかったものの、1748年のアーヘンの条約で マリア・テレジアのオーストリア王位の相続が認められた。 このゴタゴタで、外交の大切さを知った、彼女は 長年の仇敵だったブルボン家と手を結ぶことに成功し(外交革命) 継承戦争で、プロイセンに奪われたシュレジエン地方を回復すべく 1756年からの七年戦争に突入するが 領土の回復はならなかった。 婚姻による領土拡張政策とまでいわれたハプスブルグ家の外交であるが マリア・テレジアの代ハ、ブルボン家との関係に偏りすぎ 決して成功した政策とはいえない、という声もある。 巷間「女帝」といわれる彼女であるが 神聖ローマ皇帝位は男子の継承しか認められないため 正しくはオーストリア女王である。 その後も、娘マリア・アントニアが辿った運命に見るように フランスから押し寄せた革命の嵐への防戦を余儀なくされる 実に、激動の時代を生き抜いた女性であった
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