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カテゴリ:旅
今日7月15日は 燃料の高騰にあえぐ漁師さんたちが一斉に休業し、窮状を世に訴えると言う。 その燃料の高騰も、実需要によるものではなく、ファンドの投機による という 民にとって、生きにくい世になってきつつある。 5月31日にハイドシェックのコンサートが行われた置賜文化ホールは 「伝国の杜」という文化施設の一角である。 「伝国の杜」という名は、上杉鷹山の「伝国の辞」に由来する 「伝国の辞」とは、何か 和歌山在住の しげやん0710さんがブログでご紹介くださったのを引用させていただく 米沢藩は、関が原の合戦で西軍を支持したため、 120万石の領地会津から、米沢30万石に転封となり さらに三代目藩主の跡目相続の不手際により15万石に禄高を減らされてしまう。 一方で、会津時代の家臣を国替えの際、召し放つことなく丸抱えとしたため 8分の一の知行で、120万石の大名の家臣団・格式を維持することになり たちまちに藩財政は傾いてしまった。 このため、鷹山の先代領主は、本気で藩を幕府に返上しようとしていたほどであった。 治憲(鷹山)は、10歳で8代藩主重定の養子となり17歳で家督を継ぐが そのとき、米沢藩の財政は、年収の2倍の借金があったという。 長年の窮乏により人心はすさみきっていて、 「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」 という状態であったという 鷹山は、この窮状を様々な手法により建て直し 天命の飢饉では、ほとんど餓死者を出さぬほどの国力を持った国にまで回復させた。 キーワードは「自助と互助と扶助」 自らが率先して質素倹約に努め 換金性の高い漆や、紙、紅花などの商品作物の栽培を奨励し 有能な家臣を登用し、民力の涵養を図る政策に当たらせた そして、再建なった豊かな国を 自身が養子となったあとに生まれた先代重定の息子に譲るのである。 その禅譲の際、家訓として与えたのが、この「伝国の辞」3ケ条であった。 すばらしい帝王学である ********** ・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
********** じつは、これと同じような話がもうひとつ、上杉家の歴史に存在する 関が原の合戦後 家康に楯突いた上杉景勝は、その所領会津を追われることになる 移転先は米沢30万石 ところが、この米沢は、豊臣秀吉より直江山城守兼続が拝領したものであった。 すなわち 直江兼続は、主家の存続のため、自らの所領を投げ出したことになる。 さらに、兼続は、その逝去に際し 跡継ぎがいたにもかかわらず、相続をさせず 自らの所領を主家に返して没したそうである。 このような「無私」の精神こそが米沢人のDNAではないかと思えてくる。 来年のNHK大河ドラマは、この直江兼続が主人公 その兜の前立てには「愛」の一文字が記されていたという。 直江兼続及び上杉鷹山は 伝国の杜の隣、松岬神社に祀られ、今も人々の尊敬を集めているという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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