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カテゴリ:絵画.・アート
1945年、日本の敗戦により、日本は連合国の占領下に置かれる。 Ocuppied Japanの始まりとともに、戦犯の追及が始まる 次第に大きくなっていく「戦争協力藝術家の一番の戦犯は藤田である」という声 1950年、追われるように藤田は日本を出国しフランスへ フランスで、日本国籍を返上し、レオナール・フランシス・ルネというフランス人となる。 尊敬してやまないレオナルド・ダ・ヴィンチと聖フランチェスコ あくまでも真摯に藝術に生きようというフジタに ひとつの出遭いが待っていた。 個展に出品したバラの絵を 一人の紳士が求めたいと申し出る この紳士こそ、ランすのシャンパーニュメーカーG.H.Mumm社のオーナー ルネ・ラルー氏であった。 以後ラルー氏とフジタは親交を重ね フジタがキリスト教に改宗し、ランスの大聖堂で先例を受ける際の 代父をラルー氏が努めるまでの間柄となる。 そして、1960年フジタは、その全精力を傾けて、 ラルー氏の全面的な資金提供のもと ノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設にまい進することとなる。 この礼拝堂は、古都ランスのG.H.Mumm社の敷地内にひっそりと建っている。 2001年の夏、主人とともに訪れた「シャペル・フジタ」 通りを隔てた向かいは、G.H.Mumm社の本社及びシャンパン・カーヴであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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