カテゴリ:キャンプ日記(キャンプ報告)
今日はキャンプ2日目、会津観光(会津若松城)のお話・・・
会津若松城、層塔型5重5階梯郭式平山城です、通称鶴ヶ城・・・ 天守は1965年に鉄筋コンクリートで外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として利用されています、まあ建物自体に歴史を感じるものは何もないので建物としては見る価値はないかと・・・ 外観は加藤成明時代の天守を復元していますので外観としては当時の遺構がうかがえます、 とはいえやはり所詮は外観の復元たとえばこの部分・・・ 本来であればここは下が空いていて石落としになっていたと思われますね、 これではただの飾り、防御力は落ちます・・・ 会津若松城の基礎を築いたのは蘆名氏7代当主の蘆名直盛で当時は黒川城と呼ばれていました。 その後、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にしました。 しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられました、 代わって黒川城に入ったのが蒲生氏郷で、1593年大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備、望楼型7重の天守が竣工し、「鶴ヶ城」に改められました その後、氏郷の子・秀行が家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封、越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封 上杉景勝は関ヶ原の戦いで西軍に加担、30万石に下げられ出羽国米沢に移封しされました、 替わって蒲生秀行が再び入城しましたが、嫡男の忠郷が嗣子なく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封されました 代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年に起きた会津地震により倒壊した天守を層塔型5重5階地下2階に組みなおさせています。 今日再現されている天守はこの天守・・・ 加藤明成はその後会津騒動により改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となりました。 戊辰戦争の際には会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちませんでした、戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えています。 鶴ヶ城は城としてみる価値のあるものは天守よりも実は石垣の方にあります。 何度も改修、改築を繰り返した鶴ヶ城はその時代時代により石垣の趣が大きく異なるのです、 野面積み(天守台)、打ち込みはぎ(太鼓門)、切り込みはぎ(鉄門)の3種類の石垣が同時に見れる珍しい城です・・・ これは打ち込みはぎの石垣・・・ いや~、見事な虎口ですね~、防御力の高さが窺えます・・・ この形なら入ってきた外敵を横・後ろから攻撃することができますね。 こちらは切り込みはぎ・・・ 綺麗に切りそろえられていますね~、綺麗すぎて趣に欠けますが・・・ こっちは野積み・・・ 天守の石垣が一番古そうですね・・・ こっちは打ち込みはぎの武者走りの石垣・・・ 石垣の上から攻撃を加えられるよう内側からは石垣に上れるようになっています。 城の魅力は上部の構造物以外に塁線による防御構造の巧みさがありますね。 城というものは少ない人数で大軍を引きつけ出血を強いる、人を殺すための技術が詰め込まれています、当時の軍事技術の最高峰です。 こちらは打ち込みはぎですが角は切石の算木積みになっていますね これも角の強度を保つ工夫・・・ 城の橋には木橋の所と土橋(石橋)の所がありますね・・・ これは木橋の所は戦時には切り落として侵入ルートを絞る働きがあります・・・ これも当時の防御構想の一端ですね。 この見事な石垣の曲線を見て・・・ え~と・・・寝てませんよね・・・ ちょっと専門用語が増えましたが・・・ っと・・・そろそろやめましょうか・・・ 息抜きに光君の画像でも・・・ 周りの人にクスクス笑われましたが・・・ 城の前のお土産物屋で・・・ 天ぷら饅頭を食べました、名前の通り饅頭の天ぷらです・・・ ついでに、浪江焼きそばが売っていたのでこれも・・・ 後で聞いたら会津に避難している浪江の人も多いんですって・・・ それでか・・・ こっちは鶴ヶ城会館の写真・・・ 鶴ヶ城の前の観光施設です、ここに車を止めて観光でした・・・ 今日は鶴ヶ城のお話・・・ ではまた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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