カテゴリ:キャンプ日記(キャンプ報告)
キャンプ日記第9話・・・
今日は先に写真を一枚・・・ これは上杉謙信の像・・・ 謙信は言わずと知れた越後の武将、あれ?、もう新潟の話?とお思いの方もおられるかもしれませんね、 これはまだ山形です・・・ 謙信の上杉家はその後移封・減封をへて最終的には出羽米沢の地で幕末を迎えることになるのですね。 もともと上杉氏というのは関東管領の家柄で、謙信はその家臣にあたる長尾家の生まれで当時の長尾氏は越後守護代の地位にありました、 当時の長尾家は3つに分裂しており、謙信が生まれたのはそのうちの三条長尾家・・・ 蒲原に所領をもつ三条長尾氏、現在の南魚沼周辺に所領をもつ上田長尾氏、現在の長岡市周辺に所領をもつ古志長尾氏の間で越後守護代の地位を争っており、 当時は三条長尾氏が越後守護代の地位にあり、謙信も所領は蒲原にありながら上越春日山に暮らしていました、 三条長尾家を継いだ謙信はやがて越後を統一、上杉憲政から上杉家の家督と関東管領職を相続し、今に知られる上杉謙信が誕生したわけです、 野戦にめっぽう強く、戦上手で知られる武田信玄や北条氏康でも謙信との野戦は避けたといわれており、野戦ではほとんど負け知らずで軍神とまで言われていますね。 もっとも謙信存命中は米沢に移封されることはなく謙信は米沢の地には行っていないということになりますね。 謙信の次の代上杉景勝の代に上杉家は豊臣秀吉によって会津120万石に加増移封、この時に上杉家は越後国のほとんどと、越中国、北信濃を手放しておりますね、 そして居城も春日山から会津若松に移ることになるわけです、 景勝は秀吉からの信頼も厚く会津中納言と呼ばれ5大老の一人にまでなりますが、 会津移封には最上氏・伊達氏・徳川氏の監視と牽制という重要な役割があり家康との対立は避けられないものとなってまいります。 この時、奥州監視の重要な拠点であった米沢城に配置されたのが、大河ドラマにもなった直江兼次ですね。 やがて関ヶ原の合戦により天下は家康のものとなり、対立していた上杉家は大幅な厳封となるわけです、 上杉家は会津120万石から米沢30万石に減移封され、米沢上杉氏が誕生するわけです。 米沢上杉氏は・・・ 謙信に祖をおく上杉家ですので、ほら「混」の旗印が・・・ 上杉謙信は一時三条の城にいたこともありますし、直江兼次は魚沼の生まれで、その後直江家を継いで与板に居城します。 いずれも越後にはゆかりのある武将たちでありますね。 越後と山形にもこんなつながりがあったわけでして・・・ とはいえやはり彼らの活躍が生き生きと語られるのは越後の地で・・・ 会津・出羽に移ってからは・・・ 「直江状」のくだりくらいでしょうかね~、でもそれも結局は上杉家の命脈を危うくすることになるわけですし・・・ 米沢上杉氏といえばやっぱり、 この人ではないでしょうかね・・・ 上杉鷹山・・・ 領地返上寸前の米沢藩を再生させた人物ですね、 有名なこの言葉は・・・ 知らぬものはないのではないでしょうかね・・・ 江戸時代屈指の名君として知られる上杉鷹山、 鷹山が次の藩主に家督を譲る際に申し渡した藩主としての心得は・・・ まさに今の政治家に欠けているものでありますよ。 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 この言葉は「伝国の辞」と言われ、明治となって版籍奉還に至るまで、上杉家の家訓として代々家督相続の際に伝えられてきたそうです。 さてさて・・・ 現在の政治家にも代々語り継いでいただきたい言葉ではないですか・・・ 残りは上杉城史苑でのおやつです・・・ 米沢といえば米沢牛ですが米沢牛は高くてね~・・・ ガイドブックに載っていたものをそのまま食べましたよ、 デイカテッセンの米沢牛メンチカツと・・・ 米沢牛カレーパン・・・ まあ美味しいことは美味しい。。。 あとは最後に一風呂浴びて帰るだけですが、長くなったのでその話は次回・・・ キャンプ日記もあと少しもうしばらくおつきあい願いますよ・・・ ではまた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[キャンプ日記(キャンプ報告)] カテゴリの最新記事
|
|