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じゅびあの徒然日記

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2006年11月26日
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カテゴリ:離婚
今日は家を離れて日直をしている。コールがあるまでは落ち着いて取り組めそうだ。
せっかくだから家で子どもがいては、書けないことを書こうと思う。
かなり長い話なので、多分一度では無理。尻切れトンボになるけどそのつもりで。

正式に離婚をして、4年を超えた。
夫婦の崩壊、別居の開始からカウントすれば、もうすぐ、7年。
実質的な結婚生活は、5年ほどだった。

こと、私に関して言えば、正式に離婚をしてずいぶん気持ちが楽になった。
子どもの行事で他の家族が両親揃って来ているのをみると、子どもたちが本当は羨ましいだろうな、とか、駐車できない場所での行事だと送迎してくれる人もなく、自分ひとりで大量の荷物を運んでいたりしてなんとなく惨めだったり、いろいろあるけれど、それでも概して、離婚してからの自分のほうが自分らしいし、ずっと幸せだと思う。

離婚を周知して1年くらいは、ずいぶん訊かれた。「先生は、どうして離婚したの?」
思い切りプライバシーだが、私は離婚して沈んでいるように見えないので、尋ねやすいようだ。

「父のお骨を拾った日の深夜、子どもが泣いても動けなくてすぐに授乳ができなかった私に、夫が『お前の一番大事な仕事は育児だろ』と怒り出し喧嘩になったのよ。それも私の実家でね。夫は『葬式が済んだんだから明日の朝一番で帰るぞ。こんな小さな家に押し込まれているから、おかしくなるんだ』と言い出した。私が泣きながら『今日みたいな日に、こんな言い合いをして、父も悲しむ』と言ったら、夫は『死人が悲しむか!馬鹿馬鹿しい!』と叫んだの。私は早朝夫ひとりを実家から追い出して、こんなことが言える人とは、もう絶対一緒にいられないと確信したの。」
明るい調子でここまで言うと、みんな黙ってしまって、それ以上根掘り葉掘り訊かれなくなる。
嘘みたいな話だが、本当のこと。
こんなことを夫に言われた女性は私くらいだろうから、知っている人が見れば誰だかバレバレ。
もちろん、これ以前にももっといろいろあった。
これを説明するには、私の結婚生活を少し遡らなければならない。

結婚式を挙げる1週間ほど前、街中で気に入らないと元夫に顔を叩かれたことがある。
その時、迷った。自分の親に話せば「絶対結婚はならん」と反対されるに決まっていた。
それ以前にも、苗字が気に入らないという理由(これについては詳しく書くと別の批判を受けるだろうから、あえて書かないが、こういう考えがまだまだ世の中に残っているという現実を、分かる人は分かるだろう。私自身はもちろんこういった考え方を今でも相手にしないし、自分の老親を、こういう考えを持っているという点でだけは、軽蔑もしている)で結婚を反対していたのを、私が「そんなことを言ってはならない」と押し切っていたからだ。
姉には相談した。姉がやってきて元夫と話し合いをし、元夫は「謝って済むことではないことをした。二度としないし、本当にじゅびあさんのことを大切にしていきます」と姉に手紙をよこした。
この時の手紙はまだ残してあったので、実は後々、私に有利に話を運ぶ材料のひとつになった。

結婚する1ヶ月前にも、些細なことで喧嘩して元夫が「結婚なんて考え直す」と言い出したため、私は終電で向こうの家に謝りに行ったことがある。
今のように携帯が全盛でなく、メールでやり取りしてもタイムラグがあった頃。
向こうの親に心配かけてはいけないと、私は分からないように外の車の中で始発を待った。

2人揃って医者で、傍から見れば、何一つ不自由のない、いい身分の夫婦だったようだ。
元夫の父親は某超一流有名企業グループの役員(私はなんと結婚するまで分かっていなかった)。
だが、結婚式が済んでも私は入籍に躊躇していた。
表向きの理由は、仕事をするのに姓を変えるのは面倒くさい、ということになっていた。
医師免許は戸籍の姓が変われば直ちに書き換えをしなければならない(医師法の規定)。
診断書などの公文書も作るので、通称で仕事をするというのはありえないのだ。
だが本当の理由は、この人と結婚して本当にずっとやっていけるのかという心の奥底にある不安。
しばらくやってみてからにしよう、と思った。

元夫は、疲れていたり眠かったりすると機嫌の悪さが露骨に顔と態度に出る人だった。
朝食を用意しても「食べたくない」と、ほとんど朝食をとらない人だった。
習慣だから少しでも、と勧めると「朝からこんなぐちゃぐちゃ作りやがって」と怒られた。
そんな時によく「自分の親なら、こういう時いくらでも1人部屋において、静かにそっとしておいてくれるのに、お前はうるさい。もう少し静かに出来んのか」と怒っていた。
元夫の実家は一戸建てで、2階は本人と弟の部屋だけ。親の寝室とも離れていた。
だが私たちが住んでいたのはそれほど広くない賃貸マンション。
1人でずっといる空間を確保するのは難しかったし、声をかけずに長く置くのも難しかった。
今思えば、誰かとペースを合わせるとか、そういうことは一切出来ない人だった。
幼少時から、そういうことは出来なかったそうだから。

元夫は、私の親に結婚を反対されたこともあったから、結婚式を最後に、一切私の親と顔を合わせることはなかった。
私も決して会わせないようにしていた。正月に夫婦で訪ねるのも元夫の両親だけ。
私は自分の親には、実家近くの病院での当直の前日、月1回自分だけ帰省する形で会っていた。
それで納得していたし、文句を言った事はない。
私はよくこう言って元夫の両親を褒めた。
「うちの親と違って、本当によくできたご両親ね。立派なお仕事をもって、立派なおうちもあって。うちなんて小さな商店で貧乏で、家も小さいし、親はあのとおり頑固な性格だし。こんなご両親に育てられて、いいわね。」

しかし、些細なことでキレると、暴力を振るわれることは、結婚後も、何度かあった。
例えば、元夫が帰宅してから、洗濯物を畳んでいると、「何で僕が帰ってくる前に、やっておかないんだ。僕が疲れて帰ってきているのに、これ見よがしにやりやがって」。
私はご存知のように文章書きが好きなので、趣味で作った冊子の原稿作りに没頭してしまい、夕食が簡単になってしまったことがある。
その時にも「誰もお前のこんな仕事期待しちゃいない」と怒鳴られた。
髪の毛を掴んで引きずり倒されたり、厳冬の2月に、着の身着のままで外へしめ出されたり。
親が結婚祝いによこした箪笥を「こんなもの、誰が買ってくれと頼んだぁ!」と蹴りつけたり。
その箪笥は今でも私のところにあるが、元夫がつけた傷が紫檀の艶やかな表面にいくつも残る。
ふくらはぎに噛み付かれて、3週間ほど傷が消えなかったこともある。

DVについて書いた、自分の所有物を示すためのまさにマーキングである。

こういうことがあっても、死んでも自分の親には相談できないと思っていた。
今思えば、両親が変なこだわりを持って結婚に反対した、その事実があったために、私も意地になったし、相談できずに余計追い詰められた部分もある。
元夫が怒って、暴力の末自分が実家に帰ると出て行くこともあったため、相談相手は元夫の母親。
こういう時、元夫の母親はいつも私に謝罪してこう言うのだ。
「じゅびあさん、ごめんなさいね。私の育て方が間違っていたんじゃないかと思うわ。でもあの子はじゅびあさんのことが嫌いでしているんじゃないのよ。じゅびあさんは頭がいいから、分かってくれるわよね?」
夫も、実際暴力や暴言の後には、涙ながらに謝ってきて、二度としないと誓うのだ。

こんな生活の中、元夫の父親に、悪性腫瘍が見つかった。

...つづく。





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最終更新日  2006年11月26日 10時17分51秒
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