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じゅびあの徒然日記

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2006年11月28日
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カテゴリ:離婚
元夫は、妊娠中の私の体調も気遣ってはくれたし、家事も手伝わなかったわけでもなかった。
新居も完成し、私はこれから先の自分の人生が、幸福を保証されていると信じていた。
子どもが生まれれば、元夫も、少し変わるのではないか、父親らしく落ち着くのではないか、と少なからず、期待もしていた。
入籍する時に(元夫は、籍は入れるものではなく、新しい戸籍を2人で作るのだ、と言って妙に言葉にこだわり、入籍という言葉を使うことを許さなかった。)、やはり苗字を理由に再び両親の反対を受けた。
もちろん、そんなことを夫には知らせていない。恐ろしくて知らせることなどできなかった。
神経過敏になっていた私は、勤務中の病院で昼休み、駐車場の車の中に隠れよく泣いた。
非常勤で仕事を続けていたが、最後切迫早産でドクターストップが出るギリギリまで仕事をした。

切迫流産、切迫早産の危機に迫られたため、実母も遠方から手伝いによく来てくれた。
だが、元夫と長時間顔を合わせないように(これは実母が元夫を嫌っていたことにも原因があるが、それ以上に元夫は、私の両親を嫌っていたから、顔を合わせると、「その後で」私が元夫の苛立ちを一手に引き受けることになる...)、日帰り往復を続けた。
泊まれるのは元夫が当直で不在の夜だけ。年老いた母にはさぞかしきつかっただろうと思う。

子どもは6週間早く生まれ、1ヶ月ほどNICUに入った。
34週というのは、自発呼吸が出るか出ないかのギリギリライン。
そのラインを越えているかどうかで、危険度は大きく違う。
34週1日で生まれたうちの子どもは、NICUに入っていると言っても、要はあと少し保育器の中で大きくなるのを待つだけ。
他の大変な子どもたちと比べれば、あんまり医師にも看護師にも手をかけられていなかった(笑)。

1ヶ月間、毎日3時間おきに搾っては冷凍した母乳を届ける生活が続いた後、子どもたちが家にやってきた。
怒涛の日々が始まる。体力的にも気力的にもきつかった。
自分があの頃、どういうサイクルでどういう生活をしていたか、ほとんど今思い出せないほど。
実母は相変わらず日帰りで手伝いに来てくれたが、そんな中私が高熱で動けなくなってしまった。
それでも私は薬をのまずにやっていた(生後1~2ヶ月の子どもは、母子免疫があるので、まず感染症にはかからない)。
母は飛んできてくれたが、さすがに元夫が帰宅しても、その夜は泊まった。
翌朝のこと。
出勤前の元夫が解凍母乳を与えようとしていたので、母が「やりましょうか?」と声をかけた。
元夫が「父親だから」と言ったのに対し、母は「でも、お急ぎでしょうから、せめて1人」と手伝おうとした。
その途端、元夫は母に哺乳瓶を投げつけたのだ。
元夫の出勤後、涙ながらに訴える母に、私は「お母さん、とにかく帰って」と頼んだ。
ひどい娘だが、この時の私は、何とか家の中を収めることだけしか考えられなかった。
帰宅した元夫に哺乳瓶を投げつけられたと言っていたので急遽母を帰らせたことを告げると、元夫は一言、「ふーん、よく知ってるねぇ」と鼻で笑っただけだった。


元々、その翌日、父が子どもに初めて(それが、最後になった)会いに来る予定になっていた。
父は普段、土曜もお盆も祝日もなく、朝から夜まで商売をし、自宅に帰ってからも深夜まで伝票整理をしているような人だった。
休みと言えば、毎年正月三が日くらい。私はその後ろ姿を見て育った。
父と旅行に行った記憶は、一泊旅行がただ一度あるだけ。
そんな父が、土曜日仕事を休んで、遠方から子どもに会いに来る。予定の変更はありえなかった。
だがその父から私へ、夜、ものすごい剣幕で電話がかかってきた。
「どう考えたって、手伝いに来てもらって、哺乳瓶を投げつける夫のほうがおかしい」
「それでお母さんの方を帰らせるなんてお前もおかしい。どういうつもりだ」
「お母さんは帰ってきて泣いている。そんなにまでして、夫の肩を持つのか」
「明日の訪問は取りやめだ」
私も本音では夫が正しいと思っていたわけではない。
だが、その時の私は、「自分と子どもの幸せ」を守らなければいけない、と頑なに考えていた。

結局当日の昼過ぎまで、すったもんだした挙句、両親はやってきた。
もちろん、その時間、元夫は留守。
当初の予定より到着が遅れたこともあって、初めて訪れた新居に滞在できたのは、1時間かそこらだったと思う。
私は高熱が続いていて、両親はお茶1つ出させなかった。
そして、この時子どもを抱いてもらった父の写真を1枚も撮らなかった事を、私は多分、死ぬまで後悔し続けるのだ。
「とにかくじゅびあが心配だから、じゅびあのために来たのだ。くれぐれも無理をしないようにしなさい。お前を無理させるために来たのではないから、駅までバスで帰るよ」
元夫が帰宅してしまったので、早々にそう言って寒空の下帰る父の後ろ姿を見送ったのが、まさか元気な父の姿を見る最後になろうとは、夢にも思わなかった。
一番寒い季節だった。


その冬、私は1ヶ月に3回、高熱を出して倒れている。
おそらくそのうちの2回は40℃近かったから、それぞれ型の違うインフルエンザだったと思う。
それでも私は実母の応援を拒んだ。
元夫が事あるごとに「どうしてお前は実家の親に頼むんだ。それなら僕の母親に頼んだらいいだろう」と言っていたからだ。
義母は甲斐甲斐しく手伝ってくれはしたが、こちらから何かしてくれと頼むには気兼ねだった。
衛生的に母乳やミルクを扱うキッチンの三角コーナーに、うさぎの糞が捨ててあってぎょっとしたり、衛生観念が私と大きく食い違うのも、気疲れした。
義母は、掃除をするのに四角い部屋を丸く掃くような人。
普通に付き合うのなら、細かい人より楽なのだが、義母が帰ってからこっそり、やり直しや後始末をしなくてはならない。
授乳のために薬の内服を避けていたので、40℃近い熱は5日目になっても下がらなかった。
見かねた実母が「じゅびあが何を言っても手伝いに行く。あの人とは、絶対顔を合わせないように、出勤してから着いて、帰宅前に必ず帰る。こんなことをしていたら、じゅびあが死んでしまう」とやってきた。
帰る母にケーキのお土産を持たせた翌朝、夜遅く駅に迎えに来た父と母で、そのケーキを食べて美味しかったという連絡を受けた。
珍しくその日、母は手伝いに来ず、自宅で過ごしていた。
そしてその日の午後、私は今度は想像もしていない連絡を、受けることになる。
父のたった一度の訪問から、1ヶ月あまり経った、まだ浅い春の、寒い日だった。





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最終更新日  2006年11月28日 16時49分52秒
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