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じゅびあの徒然日記

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2006年11月29日
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カテゴリ:離婚
「お父さんが配達先で倒れ、救急車で運ばれた。病院に運ばれたけれど、心臓マッサージをされているみたい。息もないみたい。大変なことになった。どうしよう」という母からの電話。
同じ日のほんの少し前、甥の大学合格の知らせを聞いて喜んでいた父。
私は受話器を持ったまま暫く立ち尽くしていた。

父は十年以上前から心房細動があり、内科で処方を受けていた。
心房細動自体は、致死的な不整脈ではないが、心臓の中に血栓が出来た場合、心房細動の発作でその血栓が剥がれてよそへ飛び、塞栓となる。飛んだ先が、脳なら脳梗塞に。
それが一番怖いから甘く見ないようにね、とずっと私が言ってきたことだ。
いつも、和室に布団で寝ている父は、必ず朝、布団を畳んで押入れにしまい、起きてくる。
その日珍しく布団を敷きっぱなしで出かけたと言うから、本当は起きた時から調子が悪かったのだろうと思う。
しかし、父はそれを隠して仕事に出かけてしまった。
かかりつけの内科医から「本人が電話で診察を予約し、薬を取りに来ると言っていたのに、まだいらっしゃってない」と電話があったのは、3日後、父が亡くなってからだった。
倒れた日は特別忙しい日だったが、本人は自覚もあって、どうにか受診しようとしていたのだ。

元夫に連絡を取り、授乳を一度してから、元夫と子どもたちを連れて実家へ出発。
元夫が私の実家の敷居をまたいだのは、両親へ挨拶に来たとき以来、およそ6年ぶりくらいだったと思う。
翌朝、奇跡的に一度父は意識を取り戻す。元夫は、それなら仕事もあるし帰りたいと主張した。
私も長丁場になる可能性があるのなら、行ったり来たりもやむをえないか、と後ろ髪をひかれながら、元夫に従った。
枕元の私に、朦朧としながら「今何時だ?」と尋ねた父。
「朝の9時だよ。大丈夫だからね」と答えた私に、父は目を閉じて涙をこぼした。
結果的にこれが父と私の交わした、最後の会話。
どうしてあの時、元夫が何を言っても、私はここに残ると言えなかったのか。
結局倒れて2日後、私がいない時に、父は息を引き取ってしまう。
母にこの時なじられた。「医者のあなたがずっとついていたら、もっと違う治療もあったかもしれない、もっと医者に何かお願いできることがあったかもしれない。お父さんだって私だって、どれほど心強かったか、知れない。」

何しろ、急だった。少なくとも見た目は、元気で仕事に出かけた父が、倒れて2日で亡くなった。
私も母も姉も、心の整理がつかない。現実を受け入れきれない。
再び実家へ元夫と子どもを連れて向かったが、私は何かにつけ涙を流しては、眠ることも出来ず夜遅くまで姉や母と父の思い出話をしていた。
縁起でもない、と大手業者の互助会にも入っていなかったから、葬儀の準備も本当に一から。
訳のわからないうちに時間が流れた。
父は配達途中で急に倒れた上、仕事を肩代わりできる人間がいないので、何も分からない私たちが、残務処理も並行して行なう羽目になった。
元夫は私の親戚が集まる場に出ることは嫌うので、子どもの面倒を家で看ているので、と理由づけて通夜や葬儀に出る時間が最低限になるようにした。

しかし、元夫は、「自分にばかり子どもの世話を押し付けて、じゅびあは一日中ベチャクチャ母親や姉さんと喋ってばかりいる」と苦々しく私を見ていたようだ。
その感情が、父の葬儀を済ませた夜中に、実家で他の者にも聞こえるような大声で、怒鳴り散らす引き金となった。
夜中に子どもが泣いても、もう体力というより、気力を消耗して、すぐに動けなかった。
この時、子どもたちは生後3ヶ月になっていなかった。
葬儀の間などは元夫に分担してもらっていたが、3時間おきの授乳は、容赦なく続いていたのだ。
「僕は客のつもりで来ているのに、何一つもてなしもせず子どもの世話を押し付けやがって」
「お前の一番すべき仕事は育児だろう。すぐに起きてやれよ!」
「一日中母親や姉とべらべらべらべら喋っているくせに、子どものことは出来ないって言うのか」
「友引だからって、葬式が1日遅れただろう。そのために1日長くここにいなきゃならなかったじゃないか。なのにそのことを謝りもしない(元夫は六曜にこだわることを、以前から許さなかった。私自身はこだわりがないが、両親が気にするので、納車とか新居の着工とかは、こっそり都合で決めた日が大安に合うように操作していた。こだわりを持たないだけならいいが、知ればわざとへそを曲げて仏滅の日に執り行いかねない人なのだ、元夫は。)」
「僕が葬式とか、宗教がかったことは反吐が出るほど嫌いなのは、知っているだろう。それも黙って出てやった。線香だって上げてやったんだ」
「あんな狭い台所が使えるか。こんな小さな家に押し込まれているから、お前も僕もおかしくなるんだ。明日の朝一番で広い僕たちの家に帰ろう。そうすれば、何もかも元通りだ」

客のつもり、もてなしてもらうつもりだったのか。
道理で、自分の布団も運ばないし、お茶を飲んでも哺乳瓶を使っても、何一つ自分で洗わず積んでおいたわけで、それを台所まで運ばされるだけでも、不満だったのだ。

休日も無く、毎日深夜までコタツで背を丸めて伝票を作っていた父の小さな後姿が目に浮かんだ。
「小さな家小さな家って、私が18まで暮らした家よ。あなたの家みたいに裕福じゃないし、旅行にも行かない、車は中古で地味な生活だったけど、教育だけはって私をずっと育てて、医学部に入れてくれた父よ。そんな侮辱は許さないわ!」
「母だって急にひとりぼっちになってしまったのよ。初七日まで、私はここに残るわ」
「私は、今日父のお骨を拾ってきたのよ。こんな夜にこんな喧嘩をして、父がどれだけ悲しむか」


その瞬間、元夫が吐き出したのが、「わたしが離婚をした理由」の最初に書いた台詞だ。
私は言葉を失った。仮にも愛していると言う妻に、そういう言葉って、思いつくものだろうか。

元夫はむっとして授乳のために起き出し、私は1人布団の中で声を殺して泣き続けた。
夜明け頃、夫が起き出して声をかけてきた。まるで夕べのことなどなにもなかったように。
「さあ、帰るぞ。支度だ」
私は返事もしなかった。
「何?まだ怒っているの?」
「あなた1人で帰りなさいよ」
押し殺したような声が出た。自分からこんな憎しみのこもった声が出ることを、初めて知った。
「私は帰らない。子どもたちを連れてあなただけ帰るのは無理ね。帰るのは、あなた1人よ」
「父が一度意識が戻ったとき、あなたはどうしても帰ろうと言い出した。私は素直に従った。でも結果として私は、父の死に目に、会えなかったのよ。今度は、あなた1人で出て行きなさい」


元夫はウワーッと叫び声を上げ、まだ夜も明けやらぬ外へ飛び出して行った。
多分手荷物は持って出たのだろう。それきり、母にも姉にも挨拶することもなく、彼は帰った。
挨拶など、出来ようはずもない。
小さな古い家。彼の罵声は、実家にいた私の母や姉全員に、筒抜けだったのだから。





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最終更新日  2006年11月29日 16時15分04秒
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