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じゅびあの徒然日記

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2006年11月30日
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カテゴリ:離婚
元夫ひとりを実家から叩き出したまではよかったが、現実的には困った。
翌月から、子どもたちの保育園入所許可が出ていたのである。
産休明けに合わせて、私は細々とでも仕事を再開するつもりでいた。
ワーキングマザーなら理解してくれると思うが、保育時間、立地条件、保育内容などの条件を求めると、子どもを希望通りの保育園に入れるという作業は、簡単ではない。
子どもが複数の場合、それぞれ別の保育園になってしまうことすら、多々ある。
私も、妊娠中から資料を集め、大きなお腹で何箇所かの保育園を実際に訪ね、園長とじかに話をし、保育見学をし、産休前の職場に就労予定を証明してもらい、入所にこぎつけていた。
自宅に戻らないと、勤務再開も、保育園入所も、身動きが取れない。
とりあえず保育園には電話をかけ、父の急死により実家から動けなくなったという理由で、入所を1ヶ月遅らせてもらった。

元夫と、電話でのやりとりはあったが、さすがに今回私は折れる気にならなかった。
実家で2週間ほど過ごした頃、夫が実家にやってきた。
「とにかくじゅびあさんのお父さんを侮辱したことを、じゅびあさんにも、お母さんにも、亡くなったお父さんにも、謝罪したい。今後は、これまで以上に、いや本当に心を入れ替えて、じゅびあさんと子どもたちを守っていく。」
夫はそう言って、自分の大嫌いな私の母に頭を下げ、主義に反して父に手を合わせた。

それで私は、もう一度だけやり直してみよう、と思ってしまうのだ。
もう、とても元夫の発言を許す気持ちにはならなかった。
しかし、子どもたちのために、その気持ちを封じて、やっていこう。
やっていくと決めた以上は、死ぬまであの時夫が「死人が悲しむか、馬鹿馬鹿しい!」と言ったことを、蒸し返さないで生きていこう、二度と口にすまい、と心の中で誓った。

私は、元夫の車に乗って、子どもたちと自宅に帰った。

一方母は、父のいない家に急にひとり残されて、不安で夜も眠れずにいた。
なるべく、姉の家に行ってもらったり、来てもらったりしてしのいだが、甥の大学合格に伴い、引越しをするために姉の家族全員が向こうで1泊するという日があった。
その日だけは、じゅびあのところで預かって、と姉に言われ、母が我が家へやってきた。
あれだけのことがあって、あれだけのことを謝って、元夫も1日くらいは我慢してくれよう。
私の考えが甘かった。
夫が謝罪して私が自宅に戻り、まだ1週間しか経っていなかった。

夫は帰宅したが、食欲がないので夕食を食べない、と言い出した。
あの夜の食卓に、母が用意したエビフライが載っていた光景が、まだ鮮明に焼きついている。
母は、「お帰りなさい」と挨拶した以外、何も夫に言っていない。
どう考えても、これで気分が悪い、食欲がない、というのは母に対する嫌味だ。
一晩くらいは、見かけだけでもうまくやってほしい。
「少しだけでも食べたら?」と言った私に、夫はつかつかと母のところへ歩いていき、叫んだ。
「じゅびあのことは好きだが、お前のことは大嫌いだ!」


その瞬間、こぼれ落ちた涙と一緒に、私の中の、何かが音を立てて崩れ落ちた。
もちろん、耳には聞こえないが、こういう時に心は音を立てるのだと知った。
私が、この何年も、守ろうとしてきた「幸せ」は何だったのか。
「ああ、私はここまでよくやった。もうこれ以上頑張らなくていい。」と初めて思えた。


「お母さん、もういいよ、帰ろう。」と私は驚くほど冷静に呟いた。
「こんなことされて、あなたはまた私に帰れって言うの?」と母は半狂乱。
「ううん、お母さんだけじゃない。今度は私も一緒に行く。子どもたちも、みんな連れて行く。私は、子どもたちをこんなことが言える人間にしたくない。だから、この人の傍には置かない。」

元夫は信じられないという表情で、私を見ていた。
自分の言葉で、私の母親だけを二度と来られなくさせるつもりだったらしい。
私と、私の母親との縁を金輪際切らせようとしたようだった。
まさか私が一緒についていくと言い出すとは夢にも思っていなかったようだ。
何を言っても、妻は自分の下に残ると、信じ込んでいたようだ。

後にこの時のことを、元夫は言っている。
「お前の母親は、僕が自分を嫌っていることも知らないで、のこのこ平気でやってくる。好かれているとでも思っているんじゃないか。伝わっていないようだったから、思い知らせてやろうと思った。」

「本気でそんな風に思っているなんて、バカじゃないの?」と思った。
うちの母は、あなたのことを大嫌いだった。結婚した時から嫌っていた。
ずっとずっと、止めて早く戻って来いと言っていた。
顔も性格も全てが嫌いと言っていたよ。
だけど、それをはっきり口に出してしまったら終わりだから、表面的に私も母も隠していただけ。
あなたが私の親族郎党全て嫌っていることも分かっていたけど、それを口に出したらいけないから、気づかないフリをして、実家に来ないのも、葬儀から1人だけ帰るのも、他の理由付けをして丸く収めて来ただけ。
どこからどう見たって、分かるじゃん。
お互い口にだけは出さないのが、ルールでしょ。


こうして今度こそ別居が始まったが、実際はどうしても私が自宅で踏ん張る必要があった。
私と私の姉と、元夫とその父親で話し合いを何度ももち、元夫は離婚だけはしたくない、と私と子どもたちに自宅を譲って一人暮らしを始める。
この話し合いの中で、父親の手術の日の出来事が初めて公になり、私はこう言った。
「私はあの時ひどいことを言われても、親が生きるか死ぬかという状況だったら、自分も望みなんて持てないかもしれない、と言い聞かせてあなたを許そうとした。けれど、私は父が倒れてから、亡くなる最後の瞬間まで、父は頑張っているんだから、元気になって帰ってくる、と信じ続けていた。そういう風にしか、私は考えられなかったよ」
私もこの時点で、小さな子どもを二人抱え、すぐに離婚をするという踏ん切りはつかなかった。
自宅で、私と私の母と子ども2人の、先の見えない暮らしが始まった。





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最終更新日  2006年11月30日 16時25分19秒
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