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じゅびあの徒然日記

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2007年09月13日
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診察室で連日長時間、まるで刑事の取り調べのようなことをしながら、「私はいったい何をやっているんだろう。今私のしていることは、医療と言えるのか?」という考えが何度も頭をちらついた。
診察をするはずなのに、自分でももう、何をやっているのか分からなかった。

主治医として「放置しておくのか」と迫られた私にできる対応は、彼女が何か事件(行動化。アクティングアウトと言う)を起こした時その都度、主治医が出勤するまで他の患者さんとの接触を制限する...すなわち指定医診察により必要な行動制限「隔離」を行っていただく、しかなかった。
休日、外の病院へのパート日、当直帯...明けて出勤すれば、彼女は必ずその間に何かを起こし、隔離されていた。
出勤しては、診察室に二人きりで長時間こもり、取り調べのようなことをして、やったことを白状させる日々。
蔭で、病棟看護師長が「じゅびあ先生は、主治医としての自覚がない」と他の同期に話していることも知っていた。
知っていたが、落ち込んだり悩んだりすることなく、淡々と仕事をこなしているフリを続けていた。

看護師から病棟カンファレンスの要求も繰り返された。
「じゅびあ先生は、何をしているんですか。全く治療方針が分かりません。入院時に、上級医の△△先生が、いろいろ約束事をしたはずです。聞いてなかったんですか。」
約束事も何も、私が聞いていたのは、体重が30kgになったら退院という説明で医療保護入院にしたことだけだ。
また、この△△先生、やたらに学会やら研究会やらで外出してしまう。
何日も学会に出かける、と聞いた私は、前日に△△先生のところへ行っている。
「先生の留守中にも、何か事件が起きると思うのですが、どのような対応をしたらいいでしょう?」
△△先生は「それは、また起きた時に考えましょう」とだけ言って、出張してしまうのだ。

休みの日、他の病院に出ている日、そして夜も、もう自分がいない時に彼女は必ず「何か」を起こしているに決まっていた。
そして、出勤すれば、病棟詰所へ行くなり、「先生はご存知ですか!?」と吊るし上げられる。
私は、自分がサンドバッグなのだと感じ、またそういう役目なのだと言い聞かせ、それに徹した。
夜になると、今現在進行形で彼女が何をやらかしているのだろう、と考えてしまい、間もなく私はほとんど眠ることが出来なくなっていた。

1ヶ月半後、彼女の体重は30kgにようやく届き、退院となった。
彼女が衣服の下に、水を入れたペットボトルを2本隠して体重計に乗っていることは知っていたが、私は気づかぬことにして通した。
もう、退院してもらわなければ、私も病棟も限界だった。

彼女を週末に退院させ、初めての日曜日。
私は、月曜日が来るのが怖かった。
自分が蔭で看護師たちにボロクソ言われていることは判っている。
もう、とても病棟には行けない。
彼女を退院させ、サンドバッグとしての役割も終わった今、どうやって行っていいかが判らない。
私はアルコールと睡眠薬を一緒にのんだ。
それから、風邪薬だの、抗アレルギー剤だの、漢方薬だの、アパートにストックしてあった薬を、手当たり次第にのみ続けた。
ステレオからは、その当時一番自分の心境に近かったCDが大音量で、繰り返し流れていた。
厳密には、死のうとしたのかどうか、もよく分からない。
でも、どうしても翌日、病棟に行くことはできない、と思っていた。
そのあたりから、記憶がない。
どうやら私はどこかに電話をかけたらしいし、どこからかの電話も受けているらしい。
アパートに同じ医局の2人の医師が踏み込んだ時、私は自分でドアロックも開けたらしいが、全く覚えがない。
ハルシオンとアルコールを一緒にいったので、教科書どおり記憶が飛んだようだ。

記憶があるのは、運ばれた病院のベッドの上、からだ。
翌日にエライ耳下腺が腫れたのは、変な薬を大量にのんだツケだろう。
大学の教官の命令で、私は少なくとも2週間必ず休むこと、その間絶対に病院に近寄らないことを指示された。

復職しても暫くは、上級医も安心して私に患者さんを任せることが出来ず遠慮するので、ぼーっとして過ごすことができ、病棟にもあまり近寄らなくて済んだ。
回診について久々に病棟に入ると、看護師長が私に近づいてきた。
私は身を硬くしていた。
「先生、困っている時は困っているって言わなくちゃダメよ。決して一人で抱えないこと。そんな胃に穴が空くほど困っていたなんて、先生は顔に出さないから、ちっとも気づかなかったわ。困った時はそう言ってくれれば、みんなで考えればいいことなのよ。」
彼女が入院中、一度も流すことのなかった涙が、その途端にボロボロ溢れてきた。
でも、どうやら自分が、2週間ほど急性胃粘膜病変か何かで入院していたことになっているらしい、ということも初めて知った。
それでも結局私は比較的早い時期に、その病院での研修を止めてしまった。
自分には、精神科医としての仕事を続けていくのは無理だ、と思った。

ごく最近、自分より数年後輩に当たる医師に言われた。
「えーっ、先生は1年目の最初からそんな人をもったんですか?それはどう考えても、無理ですよ。1年目には夏休み明けまで、人格の偏りのないうつ病か、急性期で手つかずの統合失調症以外もたせてはいけない、とルールでしたよ?先生の時にはなかったんですか?」
私の事件後、次の年からそういうルールができたらしい...。
私のお蔭で、その後の精神科医1年生たちは、保護されているのだ(笑)。





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最終更新日  2007年09月13日 21時58分16秒
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