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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。古人あまた聖人の徳を形容す。 其の中一人の聖人をえがき出して親切なるはいづれぞや。 云う。書経に帝堯〔ていぎょう〕の徳を記〔しる〕して云く、 《欽明〔きんめい〕文思〔ぶんし〕安々〔あんあん〕なり。 允〔まこと〕に恭〔うやうや〕しく克〔よ〕く譲れり。 四表〔しひょう〕に光〔こう〕被〔ひ〕し、上下〔じょうげ〕に格〔いた〕れり》 (欽明文思安々。允恭克譲。光被四表、格于上下)と。 此〔かく〕の如く親切にして著明〔ちょめい〕なるはあらじ。 欽は、本体固有の敬なり。無心自然にして存せり。 維〔これ〕天之命、於〔ああ〕穆〔ぼく〕として已〔や〕まずというものなり。 深遠にしてやまざるものは、常に虚霊〔きょれい〕不昧〔ふまい〕也。 故に欽明という。 文思は、あや(文/綾)あるおもいなり。 心の官の思いのみにて、間思雑慮不常往来の妄〔もう〕なし。 思うべき道理ある事のみ覚照して、不時〔ふじ〕の思索〔しさく〕なき故に、 思うといえども自然なり。故に文思という。 安々は応事接物・起居動静、従容として天則〔てんそく〕にあたる、 自然に出〔い〕でて無事也。 篤恭にして天下〔てんか〕平〔たいら〕か也。 易簡にして天地の理〔ことわり〕得たる者なり。 允〔いん〕は、信〔まこと〕也。 恭倹にしておごりたかぶる事なきは、天・地・人三極の至徳也。 天は高遠なれども、其の気くだりてえ万物を造化〔ぞうか〕す。 日月は高明なれども、下土を照らして清濁をえらばず。 大山〔たいざん〕、高峻〔こうしゅん〕なれども、 山沢〔さんたく〕、気を通じ、潤沢、下にくだる。 聖人富貴にして諸民を子とす。 帝堯の恩沢、天下にあまねくして、恨み憤〔いきどお〕る者まれなる故に、 諫鼓〔かんこ〕をかけて民庶〔みんしょ〕のいきどおりを 直〔ぢき〕に聞こしめされしは、下〔ゲ〕す近きの至りなり。 俗にげ(下)すちかきといいて、人のほむるも、恭の一端なり。 又〔また〕恭には恭倹とて自然に倹の道理あり。 道徳仁義を富有にして、天理の真楽〔しんらく〕ゆたかなれば、 世間の願いは少しもなし。 事物求めなければおのづから質素なり。心有りて倹約はいやしき所あり。 無欲仁厚より無心にして倹なるは、 殊勝〔しゅしょう〕に精白〔せいはく〕なる者なり。 四方の物を帝土へあつめざれば、天下ゆたかにして帝土長久なるものなり。 これを、財散ずる時は民あつまるというなり。 克〔よ〕く譲るとは、帝堯の御心、虚明にして一物なければ、 百官の諫言・天下の善言をうけいれ給いて、其の中至理に叶い、 時変に達し、人情近きものをえらび用い給えり。 天下の人、帝堯の聖知を忘れて、善言を奉〔たてまつ〕れり。 故に、四海〔しかい〕の人情、残さず知り給いて、 其の命令よく可にあたれり。 みづから聖知を以て先達〔さきだち〕たまわず、 天下の人の天質の美を尽さしめらるるは謙譲〔ケンジョウ〕の至り也。 己〔おのれ〕を捨てて人にしたがわんと思う心はなけれども、 心〔こころ〕虚〔きょ〕にして一是〔いちぜ〕を有せず、 明にして人を知り、人の才知の得たる所をのこさず、 天下の事を天下の人になさしめ給えり。 帝堯の、天下の人の才知に主師〔しゅすい〕たる所は、人知らざる也。 終〔つい〕に天下をも子に伝えずして賢にゆづり給うは、 遜譲〔そんじょう〕の大なるもの也。 帝堯の奇特〔きどく〕にあらず、理〔ことわり〕の当然なり。 しかれ共〔ども〕、此の理の当然を行うこと、至徳にあらざれば行いがたし。 四表に光被すとは、天の覆〔おお〕うところ、地の載〔の〕するところ、 日月の照らす所、霜露〔そうろ〕の隊(墜)〔お〕つる所、 舟車の至るところ、人力の通ずる所、凡そ血気あるものは尊親せずということなし。 声名、中国に洋溢〔よういつ〕して、施〔ひ〕いて蛮貊〔バンパク〕に及び、 数千歳の末の世に至り、日本の遠方の者までも心にしたがうことあり。 上下に格〔いた〕るは、天地の化育を助けて、陰陽の気、至和至順なるゆえに、 風雨、民の願いにしたがい、時に雨降ふり時に風ふき、 枝をならさず壌〔つちくれ〕をながさず。 鳥獣・魚虫・草木までも、其の沢をこうぶりて其の生をとぐるをいう。 帝堯〔ていぎょう〕六尺の身、方寸の神舎、斯〔かく〕の如き広大に至れり。 神明不測の妙、天下古今これにしくものあらんや。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2021年12月31日 18時15分26秒
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