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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。易経において、程子は理〔ことわり〕を主として伝をし、 朱子は卜筮〔ぼくぜい〕を主として本義をせり。 陽明〔ようめい〕子〔し〕云〔いわ〕く、卜筮は是〔これ〕理也。 理も又〔また〕是〔これ〕卜筮也。 卜筮は疑を決し吾心を神明にすることを求むるなりと。 まことに発明(新解釈)なりといえども、いまだよく心よく落着〔らくちゃく〕せず。 云う。易に無卜〔むぼく〕の卜〔ぼく〕・無筮〔むぜい〕の筮〔ぜい〕あり。 卜筮を用うるは末〔すえ〕也。 礼・楽に玉帛〔ぎょくはく〕・鐘鼓〔しょうこ〕の有るがごとし。 故に、卜筮を主としていえば、卜筮にあらずということなし。 理を主としていえば、天下の理、易にもれたることなし。 《初九は、潜竜なり、用うることなかれ》(初九、潜竜、勿用。) 君子、潜竜の時に当りては、よく其の才知をかくして ひとり其の身をよくし、徳を養うべし。 此〔かく〕の如くするときは吉なり。これに反する時は凶なり。 これ卜筮を用いずして占〔せん〕明らかなり。 他〔ほか〕皆これにならうべし。無筮の筮にあらずや。 理を以て占い考〔かんが〕うるに、 たがう(違う)事なきことは、筮〔ぜい〕を用うるに及ばず。 ただ事のうたがわしきと、時の変〔へん〕に至りては、 常理のいまだあらわれざる事あり。 ここにおいて卜筮を用いて天に問うなり。これ又理也。 神明は不測なれども、神明、理にたがうことなし。 故に理の必然なる事には卜筮を用いず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年01月14日 21時19分03秒
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