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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。貴老、老仏は虚無をきわめ得ずとのたまえり。 彼は虚無を其の道としてくわし(精し/詳し)。 聖学は虚無を学とせず。何を以てしかの給うや。 云う。我が心、即ち太虚也。我が心即ち声臭形色なし。 万物、無より生ず。聖学は無心にして虚無存せり。虚無の至りなり。 老仏は虚無に心あり。故に真の虚無にあらず。心を用いて虚無をいう。 故に其の学くわし(精し)。 しかれども、為〔ため〕にする所あり。 陽明子云く、聖人といえども、 仙家の虚上に一毫〔いちごう〕の実を加うることあたわず。 しかれども、仙家の虚は養生〔ようじょう〕の上より来たれり。 仏家の無上に一毫の有を加うることあたわず。 しかれども、仏家の無は生死〔しょうじ〕の苦海〔くがい〕を 出離〔しゅつり〕するの上より来たれりと。 告子が不動心も又似たり。 心を動かさざる上より功夫を用うる也。 なす所〔ところ〕義にかなわざる事あれば動くもの也。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年02月04日 21時16分02秒
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