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カテゴリ:『傭兵たちの挽歌』
Photo by Martin-N 解説(角川文庫版『傭兵たちの挽歌』後編 昭和五十五年十一月十日 初版) 『黒豹の鎮魂歌』第三部冒頭に、新城彰が山に登るシーンがある。 大東会会長の朴を倒し、次の標的である保守党副総裁・薮川を狙うまでの束の間の休息シーンだ。ゴム・パチンコ、防水マッチ、大型折畳みナイフなどを猟用チョッキのポケットに突っ込み、灌木をへし折りながら強引に登っていく。キジをとらえ、イノシシを獲り、谷川で内臓をよく洗い、焼いて食べる。これらの行為は日課のトレーニングとしてさり気なく書かれるだけで何の説明もない。 このシーンが好きだ。 新城彰はキジを炙(あぶ)りながら、たくましい逸物を出し、オナ〓ーにふける。勢いよく放出すると、谷川で男根と手をきちんと洗う。これで糞まですれば言うことはない。キジの丸焼きをむさぼり喰い、タバコをゆっくりと吸ってから立ち上がり、山の奥に奥にと進み、二十キロほど登ったり降りたりするこのシーンがたとえようもなく好きなのは、普段見えにくい大藪春彦の描く男たちの核がむき出しに迫ってくるからだと思う。生命の噴出とでも言ったらいいのだろうか、抑えつけていると爆発しそうな強靭な肉体がここにはある。 もちろん他の作品にも主人公がイノシシや鹿を獲り、谷川で解体して喰うシーンはいくつもある。山に潜み、ナイフひとつで生きのびる設定も少なくない。従って『黒豹の鎮魂歌』だけが特殊なのではない。ただ戦闘の途中のサヴァイバルは多くても、休息中のサヴァイバル・トレーニングは意外に少ない。『蘇える金狼』における朝倉のジム通いはこちらに近いかもしれないが、そうした設定がむき出しの印象を与えるのも当然だろう。強靭な肉体がむき出しに迫ってくる。 これが実に見えにくい。なぜなら大藪春彦の小説は面白すぎるからだ。なぜ面白すぎるか。第一にムダな心理描写がない。そして行動を簡潔に描写するからテンポがいい。第二に活劇のディティールが克明であり、臨場感にすぐれている。第三に主人公にためらいがない。迷わず一直線に進むから目が離せない。 従って表層に目を奪われやすい。たとえば『長く熱い復讐』で、鷲尾は肉汁したたるステーキを喰うシーンがある。その直前は、関東会のチンピラを牛刀で手際よく解体するシーンだ。解体の過程を克明に、簡潔に描写するので生々しい。その直後のステーキとくるから、思わずドキッとする。表層に目を奪われているとこういうことになる。 『長く熱い復讐』の鷲尾も、『黒豹の鎮魂歌』の新城も、同じタイプの男である。プロフェッショナルと言ってもいい。真の肉体を持った男たちだ。『破壊指令No1』『偽装諜報員』の矢吹貴を加えてもいい。矢吹はこれまた見えにくいが、根はひとつだ。エア・ウェイ・ハンター・シリーズの西条秀夫を入れてもいい。矢吹と西条は、新城や鷲尾のような復讐者ではない。厳密には違うタイプの男だろう。 だが『ウィンチェスターM70』の登川のように「これまでにも、何度かもう駄目だと思いかけたことはあった。だけど、俺はいつもそのたびに、俺のずるがしこい全知力と、銃にたよって、生きのびてきたんだ。あんたのように、権力をバックにして、給料をもらって働いてきた人間とは出来が違うんだ」というセリフを吐かないだけの違いで、根はひとつなのではあるまいか。無言で窮地を脱していくから見えにくいが、己の知力と銃だけによって局面を打開していく、という点では同じなのである。 『絶望の挑戦者』の武田進は復讐者だが、目の前で妻子が殺され、発狂したように絶叫するが、頭の隅にわずかな冷静さを保ち続ける。己の手で局面を打開しなければならないからだ。 そう、たよれるのは自分の知力と銃だけ そして大藪春彦の描くそうした強靭な肉体は正解だ、といま言い切れる気がする。なぜなら活劇小説の核はストーリーでも舞台でもなく、ましてやプロットの展開でもなく、主人公の肉体にこそあるのだから。 大藪春彦の小説には食事のシーンが多い。男たちは信じられないほどの量を喰う。だが喰わないシーンも多い。戦闘前にたらふく喰うと、撃たれたとき腹膜炎になるからだという。そうして、じっと我慢しているシーンが好きだ。あるいは、かくれていたタンスから出てきて、たまっていたものを一気に放尿するシーンもいい。脱糞だってきちんとする。銃器の試射もよく出てくる。こちらは車の描写と並べて、物への偏愛と受け取られやすいが、それは技術、テクニックへの信頼と解釈すべきだろう。 そうしたもろもろのシーンの積み重ねが、主人公の肉体をつくっていく。それは、主人公の生活をすべて赤裸々に描くことでリアリティを持ち得るとの意味ではない。生き残るための肉体 まず肉体を描くこと 『傭兵たちの挽歌』は野性時代七八年十月号に一挙掲載され、その後加筆されて刊行された長編である。『復讐の弾道』『絶望の挑戦者』『黒豹の鎮魂歌』などと同系列の復讐物語だ。 この作品を書くために作者はロッキー山脈をはじめとする取材旅行に出かけ、さらには資料を五百キロ買い込んだという。従って奥が深い。ストーリーはとても要約できないし、また要約しても意味はない。構成だけ触れる。 主人公の片山健一はまず組織の傭兵として登場する。前半は、回想を插入しながらプロの戦士の死闘が展開される。この回想は象徴的で、後半の私的復讐行を支えている。どういうことか。 この作品にも『黒豹の鎮魂歌』と同じく、強靭な肉体をさすさまざまなシーンがある。銃の試射は延々と続き、バッファロー、グリズリー、キャリブーを獲るシーンもある。大小便もきちんとする。その点ではいつもと変わらない。この作品を際立たせているのは、前半に插入された回想で、どうやってその強靭な肉体が培われてきたか、幼年時代からのエピソードで提出し、その奇跡を描写している点だ。いわば水面下に埋もれている復讐者の前半生を描くことで、強靭な肉体者の一生が活写される。 休息中のサヴァイバル・トレーニングどころではない。そこにあるのは、男の一生という長い射程におけるサヴァイバルなのだ。完成度はもちろんのことだが、その意味でもこの作品は復讐物語の集大成といっていい。 いやもっとハッキリ言ったほうがいい。『傭兵たちの挽歌』は肉体の強靭さにおいて日本の活劇小説がたどりついたひとつの頂なのではないか。 それにしても『傭兵たちの挽歌』とは含みを持ったタイトルだ。アフリカの傭兵たちの挽歌なのか、それとも傭兵であった片山の挽歌なのか、いずれにも解釈できる。だが「俺は確かに、人間の形はしているが、人間ではないのかも知れぬ。俺は死神だ」との片山のセリフにぶつかると、強靭な肉体者の挽歌なのかもしれないという気がしてくる。 誰もが己の肉体を見失い、懐疑と躊躇にとらえられた時代にあって、強靭な肉体者はついに死神としてしか生きられないという皮肉 大藪春彦の物語はこのままでは終らない。どこかに突き抜ける。どこに突き抜けるかはもうしばらく待たねばならない。 北上 次郎 解説 菊池 仁 (徳間文庫 1989年 4月15日 初刷) 新潮社が新しく設けた「日本推理サスペンス大賞」の第一回受賞作、乃南アサ『幸福な朝食』を読んでいたら、巻末の選評で佐野洋氏が次のようなことを書いていた。 『四候補作に共通して言えるのは、文章がいい加減だということである。私は、これまでに同じような賞の選考委員を、何度かつとめているが、文章に関する限り、今回が一番ひどかった。応募者は、テレビ局がドラマの原作に求めるための賞という先入観から、文章などどうでもいいと考えたのだろうか。 しかし、選考にはテレビ関係者は一切タッチしていないし、選考委員たちは、映像化についての顧慮をしないで選考に当っている。第二回以降に応募される方は、そのことを頭に置いて、「小説」を書いていただきたい。』 まったく同感で思わず拍手をしてしまった。もちろん、選者の立場にあるわけではないから他の候補作を読んだわけではない。しかし、最近の新人の作品に接するたびにアイデアだけはいいのだが、文章のひどさには辟易(へきえき)させられていた。「文体が死にかけている」といった大げさな感想をもたざるをえないような情況にある。 そんな思いをだきながら久しぶりに本書の解説のために何冊か大藪春彦を読んでみた。そして、あらためてこの作家の凄(すご)さを再認識した。 例えば本書の中に主人公片山健一がスイスとイタリアの国境近くの村はずれにある射撃場に寄ってM十六A一自動ライフルを試射する場面がある。 『三つ揃いをリー・オーヴァーオール・ジャケットの作業服とリーヴァイス五〇一のジーパンに替え、まず二百メーター射程の射座の一つについた。監的壕(かんてきごう)に入った管理人が標的を上げる。白い枠のなかの黒円がある普通のターゲット紙とちがって、黒円は上半分だけが下側の半円は白に黒い点圏線が入った実戦用のものだ。 片山はM十六A一自動ライフルの三角形の支柱についた棒状のポスト照星と、携帯ハンドルの上についた孔照門をマッチで炙(あぶ)って黒い煤(すす)をつけた。反射を防ぎ、照準を出来るだけ楽に正確にするためだ。 連射時に高熱を帯びる銃身からたち昇るカゲロウで照準がぼやけるのを少しも防ぐために高い位置につけられたM十六などの現代的突撃自動ライフルの照準器は、一般のスポーツ銃を見慣れた目には奇異に映るだろう。』 といった調子の文章なのだが、なんとこれが延々四ページ近くも続くのである。人物描写や情景描写も満足にできない最近の荒けずりな作品にどっぷりつかっていると、この濃密さが心地よい。 私は本書の中でこの場面がもっとも好きである。もちろん、この場面のもつ意味は大藪作品の批評では必ず登場するように作者固有のものであり、これが“大藪春彦の世界”なのである。 ただ、この場面が好きだといった理由にはもう少し別の要素がある。前々から気になっていたのだが、今回読み直してみてあらためてそうだったのかと合点がいった。 どういうことかというと、この表現はいまひとつなのだが、現在、作者がめざそうとしているのは “整備小説” への移行なのではないか、ということなのである。例えば代表作である 『汚れた英雄』はレースに勝つことだけに絞り込んだ北野晶夫の短い人生が描かれている。性、暴力といった装飾物がストーリーをにぎやかにしてはいるが、究極にあるのはマシーンと一体感をもてるかどうかなのである。だからこそマシーンの描写は凄(すさ)まじい分量となる。しかし、ここでは作者はまだ “整備” についてさほど関心を払っていない。 ところが、『蘇える金狼』(徳間文庫所収)あたりからこの “整備” への関心が見えはじめる。 『朝倉は拳銃の銃把から弾倉を抜いた。弾倉に九発つまった二十二口径の小さな弾を全部抜き出して弾倉がグラグラしていないかを調べる。二十二口径の柔らかい鉛の弾頭とこれも柔らかい薬莢は、少し乱暴に扱うと密着性を失い、隙間から湿気が入って不発を起こしやすいからだ。九発の弾は、レミントン・ハイ・スピードの新鮮な弾であった。朝倉はそれらを弾倉に詰め直し、拳銃の遊底を引いてみる。 薬室の弾は、弾頭がゆるんでいた。朝倉はその不良弾を嚙んでおいて、薬莢から捩いた。歯型がくいこんで、魚釣りのオモリのようになった鉛の弾頭をポケットにおさめ、朝倉は薬莢の火薬を捨てる。』 といった具合だ。この作品で作者は主人公朝倉哲也の心理を「強烈な破壊力を秘めた銃器、圧倒的に早い車、それらは力のシンボルであり、力への憧憬だ。しかしそれだけのことではない。素晴しいメカニズム、精巧な機械は現代の宗教なのだ」と述べているが、この後の作品はほぼこの構図の中で描かれる。 さらに「ハードボイルドはストイシズムの美学だ。耐えて耐えぬいたものが行動となって爆発し、再び “静” の世界に戻っていく美しさだ」と作者は語っているが、これを裏付けるように、初期作品の『みな殺しの歌』『凶銃ワルサーP38』(徳間文庫所収)はともかくとしても、四十四年に発表された『絶望の挑戦者』あたりから、主人公の多くは復讐(ふくしゅう)者としての境遇を与えられる。 つまり、復讐を起爆装置として、それを成し遂げるためにストイックな行動原理がすべてを支配する主人公の登場である。復讐の怨念(おんねん)を極限まで燃やし、相手を突き抜けるまでのプロセスが密度の濃い文体で描かれる。この間でもうひとつ注目しなければならないのは濃密な描写の対象に〝自然〟が加わってきたことだろう。 実はこれらの特徴をもっともよく表わしたのが一九七八年に発表された本書なのである。その意味でいくと本書は大藪作品の到達点を示すと同時に、変化の予兆を見せた作品ともいえる。 要するに、自らの怨念を極限まで燃やし相手を倒すために主人公は機械や自然と一体となる。一体となるために黙々と銃器を整備する。撃って倒す行為よりも、作者はこの黙々と整備する主人公の行為に関心を示す。随所に登場するハンティングも同様の位相にある。作者がこの整備する行為を純粋培養していく構えを見せた初めての作品といえる。 本書でのもうひとつの見せ場は後半に延々と続くロッキー越えである。ここで展開するエレーンとの生活には、激しい銃撃戦やセックスシーンの連続が特徴とされてきた作者の作品とはっきり一線を画す何かが生まれようとしているのではないかと感じた。 その意味でいけば、本書は作者の今後を占う意味では最も重要な位置づけをもった作品といえよう。 エピローグが象徴的だ。 『朦朧としながら夢を見ていた。死と生の魔境を魂は彷徨いながら、夢を見ていた。 暖かい暖炉の火が燃える家で、全身に喜びを現した晶子と亜蘭(あらん)と理図(りず)が、久ぶりに帰宅した片山に両手を差しのべてくれている。 三人に抱(いだ)かれて、闘いに疲れきった片山は、そのまま眠りにつきたかった。甘美な眠りに落ちこみたかった。 その時、エレーンが夢に出てきた。エレーンは片山を支え起し、エルクやムースやグラウス、それにマスや鴨(かも)に満ちた林や川に早く帰ろうと片山の手を引く。』 哀切きわまりないロッキー越えという自然回帰のドラマが次に用意されていたこのエピローグこそ来たるべき新しい作品世界を予感させるものである。エレーンが夢に出てきてロッキーへ誘う場面はその象徴である。 『もともと僕の小説世界には、エンターティメントにもかかわらず、ストイックな性格のヒーローが少なくなかった。 無論、そのストイシズムは、ただ耐えに耐えるというものではなく、忍耐が限度に来た時には爆発的な暴力として炸裂し、再び “静” の世界に戻っていったが・・・・・・。 僕がその戦闘的ストイシズム哲学ともいうべきものを大きく反映させたヒーローに、「傭兵たちの挽歌」の片山健一がいたが、この「ヘッド・ハンター」のヒーローの杉田淳ともなると、人間であることの世界を突き抜けてしまったような感じもある』。 作者は一九八一年に発表された『ヘッド・ハンター』のあとがきでそう記しているが、大藪作品は新しい世界に足を踏み入れつつあるのだ。 一九八九年三月 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2022年02月13日 19時55分42秒
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