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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。聖賢君子は大いに人に異なり、 しかるを、人知らざることあるは、何ぞや。 云う。君子は富士山の如くならんとおもえるか、富士高しといえども平地にしかず。 万山を載せて重しとせず、河海をおさめてもらさず。 広厚の徳ありといえども、平地に何の見るべきことあらん。 世の中の少し学知有る者、大いに衆に異なるが如くなるは、 庭前〔にわさき〕築山〔つきやま〕の如し。 其のすこしきなることを知るべし。 一 心友問う。人死して、其の神〔しん〕、天に帰〔き〕すといえり。 何の精神か一物と成りて天に帰すべき。 魂気〔こんき〕游散〔ゆうさん〕し魄体〔はくたい〕蝉蛻〔せんぜい〕のごとし。 空々〔くうくう〕寂々〔じゃくじゃく〕たり。 ただ此の空のみ本来の常体ならずや。 云う。世人、形体の上より見〔けん〕を立つるが故に、生死を以て二つにす。 この故に、天に帰するの説あり。 吾〔われ〕本〔もと〕不来〔ふらい〕、天と吾と一つ也。 何の帰するということかあらむ。 吾〔わ〕が心の霊明、即ち天地の万物を造化する主宰也、 即ち鬼神の吉凶〔きっきょう〕災祥〔さいしょう〕をなす精霊〔せいれい〕也。 天地鬼神の精霊主宰なくば、吾が心の霊明もなからん。 吾が心の霊明なくば、天地鬼神の霊所〔れいしょ〕(※はたらき)もなからん。 今、死体の人は精霊游散す、死体の者の天地万物いづれの所にかあるや。 故に、君子大をかたれば天下よく載〔の〕することなく、 小をかたれば天下よく破ることなし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年03月19日 06時49分57秒
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