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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。俗楽〔ぞくらく〕・真楽〔しんらく〕の分〔ぶん〕いかむ。 云う。憂苦を去りて悦楽を求むるは俗楽也。 天地の理〔ことわり〕、陽〔よう〕のみにして陰〔いん〕なきことはあたわず。 人生の境〔さかい〕、苦楽たがいにいたれり(至れり)。 苦をいとえ(厭え)ども去ることあたわず。楽を求むれども得〔う〕るあたわず。 たまたま楽を得ても楽中に苦を生ず。 況〔いわん〕や、患難の来たること、冬の寒気のいたるがごとくにして、ふせぐべからず。 故に、俗楽は、仏家にいえる水の泡の如く、電〔イナビカリ〕の影のごとく、 幻〔マボロシ〕のごとくにして、其の有無を定めがたし。 真楽は悦楽・憂患を以て二つにせず。 憂〔うれ〕うべくして憂うといえども、憂え、心中、 人欲のまじわりなければ、其の楽しみを改めず。 悦ぶべくして悦ぶといえども、其の喜び、心中、 人欲のまじわりなければ、楽しみて淫〔いん〕せず。 怒るべくしていかるといえ共〔ども〕、火気〔かき〕の動きなければ、 心体〔しんたい〕廓然〔カクゼン〕太公〔たいこう〕(大公)にして本体の正を失わず。 たとえば外人(※他人)の相〔あい〕争い相闘う者を見るがごとし。 其の非道なるは、我が心にも怒る。 いかるといえども、我にあづからざれば、心動かざるがごとし。 病苦といえ共、病〔やまい〕のために心体をくるしめず、常に快活の本然を失わず。 此の心の動かざるところ、則〔すなわ〕ち楽しみ也。 ひとり死生の理〔ことわり〕において、聖学の徒大体まどいなし。 昼夜の道とひとしき理はさとれり。 しかれ共、其の心、死にあたりては、 日くれていぬる(寝る)と同じくおもうことかたし(難し)。 ここにいたりて毫髪〔ごうはつ〕(※わづか)もいさぎよからざる所あるは、 全体においてまだ融釈〔ユウエキ〕せざる所ある故也。 されば、いまだ至楽にいたることあたわず。 世間、死をよくする者多しといえども、或いは名により、或いは学見により、 心を起こして、強いて安〔やす〕んずるなり。 昼夜の道に通じて知る者すくなし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年03月27日 05時53分51秒
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