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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。間思雑慮〔かんしざつりょ〕の妄念、 はらえ共〔ども〕跡〔あと〕より生じて克〔か〕ち去ること成りがたし、 いかなる工夫にてか、此の心魔〔シンマ〕を降伏〔ゴウフク〕すべきや。 云う。吾子〔ごし〕、何のために此の妄念をいとえる(厭える)や。 云う。悟道を得て惑〔まど〕いなく、心楽を得て苦〔く〕なからんことを欲す。 云う。何ぞや、吾子が悟道と云うは。 闇夜の明けたるがごとく悪夢のさめたるが如くならんと思えるか。 云う。しかり。 云う。何ぞや、吾子が願える心楽というは。 世間の諸々の苦痛去りて、心〔こころ〕常に快楽ならんと思えるか。 云う。しかり。 云う。その諸〔もろもろ〕の惑い・諸々の苦は、皆〔みな〕私欲より生ず。 吾子、凡根〔ぼんこん〕の私欲を秘蔵して、私欲より出づるものを去るとも、 終身〔しゅうしん〕功なけん。 仏者の、今生〔こんじょう〕やすからざる為に後生〔ごしょう〕を願うがごとし。 其の心〔こころ〕則ち地獄なることを知らざる也。 貪欲を本〔もと〕として願えばにや、後生を願う者は欲ふかく悪行なる者也といえり。 世間、惑いを行いて才知有りとし、苦を聚〔あつ〕めて利とする者は、 終〔つい〕に道学をきかざる人也。 吾子、苦惑〔くわく〕をさとれる(悟れる)ことは、平人に異なるが如くなれども、 凡心の私欲利害を帯びたることは同じ。 夫〔そ〕れ欲と惑いとは一病〔いちびょう〕両痛〔りょうつう〕にして、 間思雑慮の源〔みなもと〕也。 此の源を絶たずして此の間雑を克治〔こくち〕せむとす。 凡心を以て俄かに聖人の無思無為・寂然不動感じて通ずるの位〔くらい〕を望めり。 是〔こ〕れ義を以て襲いてとる(取る)というもの也。 身を終るまで得〔う〕べからず。 吾子、恒〔つね〕に産〔さん〕(※財産・生業)なけ共〔ども〕、恒の心あり。 盗みをせざるの事においては精義〔せいぎ〕神に入〔い〕る。 故に、盗みをすべき間思慮〔かんしりょ〕なし。盗みをしたる夢もなし。 これ、何の工夫・何の学に得たるや。 此の一事には欲惑〔よくわく〕の病〔やまい〕なければ也。 故に、一分〔いちぶ〕心を尽くせば一分の明悟〔めいご〕・安楽あり。 明悟・安楽ともに性の妙用也。性を尽くすに従いて生ず。 明悟・安楽を求めんがために学ぶ者は私欲なり。 私欲を以て道を得べきことかたし。 心は活潑々地〔かっぱつぱっち〕、生々不息〔せいせいふそく〕の理〔ことわり〕也。 是れ故に、心の官は思うといえり。 私欲の累〔わづら〕い除きて天理流行する時は、 思慮〔しりょ〕皆〔みな〕其の官を得〔う〕。 これを一致〔いっち〕百慮〔ひゃくりょ〕ともいう。 清水〔せいすい〕・濁水〔だくすい〕同じく一河〔いちが〕の流れなるがごとし。 思慮は、たとえば水のごとし。間雑は濁りのごとし。 濁りをいといて(厭いて)水をふさがむとするとも、源ある泉なればとどむべからず。 心の活潑流行なれば絶つべからず。 源泉ながれて息〔や〕まざるときは、まじわりたる濁りは一旦の事にて、 根〔ね〕なきものなれば、終には、本源の水ばかりに成りて清〔す〕む也。 学者も又〔また〕期する所なくして実〔じつ〕をつとめてやまざる時は、 間慮の妄は一旦の迷いなれば、次第にのぞき去りて、 心の本然〔ほんねん〕を得〔う〕べし。天理・人欲並び立たずといえり。 吾子、私欲を心源〔しんげん〕として、 其の心源より出づるものを去らむとするは惑いなり。 天理を心源とせば、制せず共〔とも〕間慮除くべし。 陽明子〔ようめいし〕云〔いわ〕く、 養生は清心〔せいしん〕寡欲〔かよく〕を要〔よう〕とす。 養生の二字自ら私〔ワタクシ〕し自ら利す。 此の病根東に滅して生ぜん。清心寡欲終に得べからず。 又〔また〕云く、寧静〔ねいせい〕を求むと欲して念生じることなからむと欲す。 これ自ら私し自ら利する意必〔いひつ〕の病〔やまい〕也。 是〔ここ〕を以て念いよいよ生じて、いよいよ寧静ならずと。 今、吾子、念をはらい去りて無念なる所を本体と思えるは、不可也。 これ却りて、私念〔しねん〕死体也。 維〔こ〕れ天之命、於〔ああ〕穆〔ぼく〕として已まずといえり。 天機〔てんき〕活潑〔かっぱつ〕、しばらくもやむべからず。 故に、人〔ひと〕念〔ねん〕なき時なし、ただ正しからんことを欲するのみ。 思〔し〕無〔む〕邪〔じゃ〕の三字心法を尽くせり。言近くして旨遠し。 故に、学者ゆるがせにして無窮の味わいをしらず。 戒慎〔かいしん〕恐懼〔きょうく〕して独〔どく〕を慎むも則ち念〔ねん〕也。 君子は、無欲を以て静とし、好悪〔こうお〕なきを以て無念とす。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2022年04月15日 21時56分13秒
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