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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 学友問う。天は其の理〔ことわり〕に応じて無心なり。 聖人は其の心万事に順〔じゅん〕にして無情也。 無心無情はよきにとれり。 しかるに、歌をよむ時、心あるというはよく、心なしというはあしきは、いかが。 云う。歌に心あるというは、なさけ有りというたぐい(類)にて仁愛あり、 物に心得て平人ならざるをいう成るべし。 心なきというは、何もしらぬ賤男〔しづのお〕賤女〔しづのめ〕に同じき者にて、 なさけなき人という義〔ぎ〕成るべし。 聖人に無情といえるも、情なきにはあらず。 天地の四時の色のごとく、理に和して気のうごきなきをいうなり。 無心と云うも至公にして私心なきの義なり。 一 或るひと問う。本体は空々〔くうくう〕寂々〔じゃくじゃく〕たり、 感あるべからず。わづかに感ずるは是〔これ〕気也。 惻隠の心も赤子の井〔い〕に入〔い〕るなどを見て発す。 物の感ずることあれば応ずる也。 感応は陰陽なり、理〔ことわり〕というべからず。 仁義礼知共に気の霊覚也。 本然は陰陽感応をはなれたるものにはあらずや。 云う。本体の理は、応ぜざれども時ありて感ず。 太虚無一物の時、何者か来たりて感応すべきや。 本理の無声〔ぶせい〕無臭〔ぶしゅう〕は寂感也。 ひとり感ぜずには、天地も何よりてかひらくべきや。 感の聞くべく云うべきは気也。 本体の感は、見るべからず、聞くべからず、その跡によっていうのみ。 わづかに感応をいえば、本体にあらず。 天下の故〔こと〕に通ずる所に付きて、其の本〔もと〕を知るのみ。 故に感と云う。気にわたりたる所を以ていえるは、あやまり也。 又〔また〕本体に感なきと見るも、本体を知らざる也。 至神は神ならず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年04月29日 22時08分53秒
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