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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 学友問う。間思〔かんし〕雑慮〔ざつりょ〕はらえども(払えども)生じて制しがたし。 云う。間雑の二字を妄〔もう〕とす。思慮は絶〔た〕ゆるべからず。ただ邪なからんのみ。 程子云わく、人は活物〔カツブツ〕也、動作あるべし、思慮有るべし。 邪を閉〔ふ〕せぐ時は、誠おのづから存す。則ち忠信を主とす、といえり。 誠は無欲也。思うこともなく、為〔す〕ることもなし。 寂然〔せきぜん〕不動にして感じて天下の故〔こと〕に通ず。 今の人は、一己〔いっこ〕の人欲、身の主たり。 故に思うこと天理ならず、動くこと義理ならず。思〔し〕・為〔い〕共に皆妄也。 妄の主をかえずして其の末をふせぐとも、制し得〔う〕べからず。 間雑をはらうの念、又心上に累〔わづら〕いをますべきなり。 しかじ、有念〔うねん〕・無念〔むねん〕ともに忘れて誠を思わんには。 一 心友問う。易〔イ〕に居て命〔メイ〕を俟〔マ〕つの義、いかが。 云う。富貴〔ふうき〕・貧賤・安静・患難・死生・寿夭〔じゅよう〕みな命也。 俟つは客をあえしらうがごとし。 心、惑〔まど〕いなく願いなく、安易の地に居て、天命の客をあえしらう意也。 死生も則ち客也。 故に、朝〔あした〕に道を聞いて夕〔ゆうべ〕に死すとも可なるもの也。 《正叔の云わく、吾〔わ〕れ日に安地を履〔ふ〕む、何をか労し何をか苦しまん。 他の人は日に危地を践〔ふ〕む、これすなわち労苦す。》 (正叔云、吾日履安地、何労何苦。他人日践危地此乃労苦。) 凡人は苦を以てたのしびとす、これを惑いという。 日々さかしき所をおこないて幸いを求む。命のいたる事を知らず。 柔弱の者はさし当りて憂哀し、勇強の者はせまりては是非なしとして亡ぶ。 ともに心くらきは一つなり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年07月22日 20時09分20秒
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