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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。仏氏は死を説きて生を説かず。孔子は生を言いて死を言わず。 儒仏のたがう(違う)所ここにあるべきか。 云う。死生一貫也。孔子何ぞ生を言いて死をのこし給わんや。 人の、死を問うは、本〔もと〕をすてて末〔すえ〕による惑〔まど〕いあるによりて、 其の本に達する時は、末おのづから知るべき理〔ことわり〕を教え給う也。 聖人の心に生死なき事、常人の心に昼夜なきがごとし。 昼夜死生一貫にして二つにあらずといえ共〔ども〕、常人は昼夜を知りて生死を知らず。 これ昼夜も亦〔また〕知らざる也。 しかれ共、疑いなき者は古今惑わざるの常〔つね〕によるのみ。 堯舜〔ぎょうしゅん〕の民は生死も亦かくのごとし。 仏氏は、生死の理にまよいて、生死をおそるるが故に、生死を説くことやまず。 聖学には、生死の惑いなければおそれ(恐れ)なし。故に死生を説かず。 和漢ともに、三千年来生死に恐動〔きょうどう〕せられて、 生死の夢を見てさめたる者まれ(稀)なり。 異学(※仏教)は、惑いに居〔い〕て惑いを解かむとす。夢中に夢を見るがごとし。 聖人の道は、日月の明らかなるがごとし。 まようべきことなく、さとるべき事なし。 故に《孔子の云〔のたま〕わく、予〔わ〕れ言うことなからんと欲す。 天何をか言わんや。四時〔しいじ〕に行なわれ、百物生ず。》 (孔子云、予欲無言。天何言哉。四時行焉、百物生焉。) 顔子黙識して弁論なく愚かなるがごとくなるもの、是〔これ〕なり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年08月12日 22時50分31秒
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