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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
一 心友問う。楽しめる君子は民の父母なり。たのしまざるは君子にたらずといえり。 君子のたのしむ所は、何ぞや。 云う。程子の云〔いわ〕く、楽しみは理〔ことわり〕にしたがうを楽しみとすと。 此の意味学びざれば知らず。 たとえば音楽を学ぶがごとし。 淫声(俗楽)は、しらざれども、聞きておもしろし。 正楽〔セイガク〕(※雅楽〔ガガク〕)は、しらざる人、聞きておもしろからず、 学び得て後〔のち〕面白き所あり。 学びて理を照らす事明らかなれば、自然の理にしたがう事をたのしむもの也。 音律耳に入〔い〕れば自然に雅楽を楽しむがごとし。 凡人は、欲にしたがうを楽しみとおもいて、理にしたがうをつとめと思えり。 道をしらざるが故〔ゆえ〕也。 君子より見れば、欲にしたがうは皆〔みな〕苦〔く〕なり。 しかるを、たのしみと思うはまどえるなり。 雅楽の神気を養いてあかぬ所あるをしらずして、 淫声の神気を害するものを好むがごとし。 一 心友問う。《惟〔ただ〕聖人にして然る後〔のち〕形を践〔ふ〕む》 (惟聖人然後践形)とは、人道を尽くし得〔う〕る也、といえるは、いかが。 云う。人は、五行の秀気、神明の舎・天地の徳也といえり。 これによくかなうを、人道を尽くし得〔う〕るというべし。 聖人あらわれて、人の天地の徳たることをしれり。 是〔これ〕形を践む也。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022年09月09日 22時37分25秒
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