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テーマ:暮らしを楽しむ(388342)
カテゴリ:まいにちのきろく
先週の水曜日、新米ママのお友達にアドバイスをしてあげた。 「子供ってね、0歳~7歳くらいまでは手を離さず、7歳から12歳までは目を離さず、12歳からは心を離さずで育てる事を心がけると良いんだって。」 私も子育て暦3年目、いろいろなセミナーや勉強会に参加して知識も随分増えたし、よその子にアドバイスするまでになったと、ちょっと自己満足。 木曜日、道路の横断歩道から歩道への段差を上がることができずに、困っていらっしゃった高齢のご婦人に手を貸してあげた。 「子供には、生きた教育が必要。きっと私の背中を見て、何かを学んでくれるはず。」と、良い事をした自分と、子供にそれを見せた自分に酔いしれる。 金曜日夕方、子供がいきなり嘔吐下痢症にかかる。39.5度を超える高熱が続き、嘔吐と下痢をひっきりなしに繰り返す。急激な衰弱状態から、物を言うこともできなくなっている娘。何を言いたいのか?、どうしたいのか?必死の思いで目を見てその思いを汲み取ろうとするのだけれど、なかなか読みとれない。 まだこの子が物言えぬ乳児だったときは、もっと真剣に子供の様子に目をかけ気にかけ、思いを汲み取る事に真剣に取り組み、願いを叶える事ができたのに・・・・。 病院にて点滴を受け脱水状態から抜け出したせいか少し回復した娘を見ながら、自分の今までを反省する。 知識だけでは、駄目。それを生かす知恵があってこそ、初めてそれが生かされる。机上論だけでは評論家と一緒。知識を生かして知恵にする生活家にならなくては。 木曜日に出会ったご婦人は、私のよこしまな邪心を気付かせるために、あの時あの場に現れた神さまか仏さまだったに違いない。 誰かに何かをして”あげて”、それで子供に教育できるとか、誰かにアドバイスしたなんてすごくおこがましい。 私の前にある全ての物は、私に何かを教えるために神仏が私に使わしたもの。目の前の人や物や事象から、何かを学びなさいと。何を学ぶかは、私の自由。何を学ばないかも、私の自由。機会だけは与えるから、自分自身で学び取りなさいと。 与えていただく”機会”は、自分にとって心地よいものだけとは限らない。学生時代と同じように、苦手な分野やどうしても合格点がもらえない分野もあるはず。向き合うだけで辛くなることもたくさんあるはず。 でも、「嫌な事ばかり、辛い事ばかり、どうして自分にばかり起こるんだろう」と嘆き悲しみ他人を羨み恨んでばかりいたら、自分自身が顔つきも体つきも嫌な、不幸ばかりを呼び寄せる人になるはず。 「辛いし、嫌なことだけど、これは私を成長させるために「与えられた試練」なんだ。これを乗り越えられたとき、きっと未来の私はほんの少しでも成長しているはずだ」と思えれば、どんな事が与えられようと、きっと乗り越えていけるはず。そして一回りも二回りも大きく成長できるはず。 今日からは、○○して”あげる”を禁句にしなくっちゃ。○○”させていただく”の気持ちを失わないようにしなくっちゃ。 娘の病気のお陰で、自分の嫌な部分の反省をできました。 「いつも誰にでも、心で誠心誠意向き合い、きちんと相手に目を向け、目を見て話し、必要とあらば手を差し伸べさせて頂く。」そうすることが大事だったんだ。 「誰かを教育するため、誰かを躾けるために良い行いをするんじゃないよね。子供にとっても、神仏は学ぶための何かを使わせていらっしゃるはず。子供が自分の心で学んでいくはず。私は、自分自身の心に恥じないために良い行いをさせていただく事が使命なんだ。」 この何日かの間に、私に使わされた「学びの素」は数限りなくあるんだろうけれど、私が受け取ったのはこの2つ。 うーん。神様仏様、頑張りますので、落第にはしないで下さい。 明日も頑張ります! つぎの瞬間もしあわせだよ。あなたもわたしも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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