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カテゴリ:自分を育てる
昨日は、まぁちゃんの幼稚園の始園式。 子供と共に、新しい節目を喜びたい・・・。 まぁちゃんの通う幼稚園は、その趣旨の元共に過ごす時間を設けていただいております。 入園以来、様々な行事の中で我が子の姿を垣間見るとき、その成長を喜ぶ自分がいると共に、また別の目がいくつか自分の中にある事に気付きました。 一つ目は、自分を見る自分の目。 二つ目は、自分がどう他人に写っているのか気にする目。 三つ目は、他人が我が子をどう見ているか気にする目。 四つ目は、我が子の中に自分を見る目。 そんなたくさんの目を持って、我が子の後姿を見ている自分に気付き、ちょっと自己嫌悪です。 自分を見る目と、自分が他人にどう見られているかを気にする目は、まだ自分に関わることだから良しとしましょう。これを気にしすぎても問題だけど、気にしないと野放図になってしまいそうですから。 でも、他人が我が子をどう見るかという目は、ちょっと問題。 自分が我が子をどう見るか?ならば、優しい子とか我慢強い子等など、少なからず「○○の子になってほしい」という願望がありますから、その自分の願いに沿った子育てをして、出来る限りその想いを受け取って成長してほしいなと思っています。 自分が・・・ならば、その裏に自分自身という責任が発生するし、その結果はすべて自分が刈り取るもの。 でも他人が・・・というのは、私の「人の目を気にする」エゴでしかない。 私の「○○の子」という願望の中に、「他人様に迷惑をかけない子」という物があります。、その目的に沿ってきちんと善悪を教え導く子育てをしていれば、本来「他人の目」は気にならないはず。もしも我が子がご迷惑をおかけしているということが分かったら、その相手に対してきちんと誤りその後の修正ができるはず・・・・だと頭では思っているのに・・・・。 何もする前から、なんとなく牽制している自分を発見。これでは、まぁちゃんの心のフィールドはどんどん狭くなってしまいます・・・。 のびのびさせるためにも(子供らしい子というのも願望の一つですから・・・)、もっと私が大らかでなくっちゃ!と、今日からの私のあり方を再度認識させられた日でもありました。 そして、一番厄介なのが「我が子の中に自分を見る目」です。 まぁちゃんが無事この世に生れ落ちた瞬間に感じた事を、4年半も経つと時々忘れてしまいます。 『胎内にいた時はまさに一心同体だったけれど、身二つになった瞬間から私の我が子は別の人格。』そう思って育てよう!と心に決めたはずなのに、成長と共についつい我が子の中に自分を見つけてしまう事が、私自身を無分別にしてしまうのかもしれません。 この子の中には、私とは違う何かがある・・・と思えるときは、まだ自分と自分とは異なる存在である我が子との距離感は、上手に保てます。違う何かを持つことが、親にとっても嬉しい事であればなおさらです。 そして、この子の中は、親が持つ○○の片鱗(自分に自信があるもの)を受け継いできてくれている、そう思えるときもやはり嬉しく感じます。 うーん、文字にすると勝手な親だ・・・。 ただ子供の中に、自分が持つ嫌な部分を見たとき、もしくは自分は気付いていなかった自分の嫌な部分を見せ付けられたとき、ついつい自分のコンプレックスを目の前に引き出されたような気がして、とたんにナーバスな気分になってしまいます。 いやぁ・・・、ほんととんでもない親だ・・・。 でもね。考えてみたら、そんな嫌な自分も自分であることには変わりないし、本来は受け入れてあげるべき自分であるわけです。 どんな部分を持つ我が子を責めることなく、自分が嫌いな自分も自分が好きな自分も全て認めて、我が子の事とともに自分も受け入れる・・・・ことにしよう。 そう決めたとたんに頭の中に浮かんできたのは、「インナーチャイルドセラピー!」という言葉。セラピストとしてはとっても馴染み深いセラピーを、自分自身にやることにしましょう。 これから度々行事で一緒になる事が多くなる我が子の後ろ姿を見ながら、きっと私の「インナーチャイルド」ちゃん達も癒されるかしら? そして、そんな私の後姿を見ながら、まぁちゃんは何かを観じてくれるといいな。 敬に居て簡を行う(人に優しく 自分に厳しく)を心に掲げ、実りの秋を進みましょう。 (敬に居て簡を行う・・・・正しいと思ったことを貫くのはいいけれど、その尺度を他人に押し付けてはならない。人付き合いの第一歩は、相手を思いやる気持ちから・・・・論語より)
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