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テーマ:徒然日記(23328)
カテゴリ:人間観察日記
気がつけば、友達が少ない人になってしまっていた。
原因は、私が人間をイヤになってしまうような機会が多かったために、 やたらに人と交流することを避けるようになったことだ。 過去をふりかえれば、多くの人々と知り合い、交流してきた。 親友と呼べる人は、いつも少なかったけど、 友人知人は多い方だった。 しかし、友人知人というものは、一緒に居て楽しいものではあるが、 ことあるごとに、こちらを頼ってくることがあり、 それは、困った時だけ連絡がくる、から始まり、 人を紹介して欲しい、面白いことを提供してほしい、 人数を埋めてほしい、つきあってほしい、などなど、 関係をつないでいく要素が、ことごとく 何かしてほしい、という要望があってこそで、 純粋に友情と呼べるものがあったのかどうか、 考えてみても、疑わしいばかり。 私自身は、なにごとも、人に頼らないのがモットーであるから、 全面的に誰かに頼るような立場になったら、 それはもう、後がないのであろう。 そんな生き方なものだから、 友人知人には、頼られる要求されるばかりになってしまう。 期待されているなら、お応えしてもかまわない。 私にできることなら、やりましょう。 しかし、それも常になってくると、 何かを頼まれた際に、イヤな顔でもしようものなら、 「なんでしてくれないのか」と不条理な怒りを ぶつけられることになる。 断ろうものなら、憤慨して絶縁、 というケースもあった。 理不尽きわまりない。 では、と、断らないかわりに、 お金をもらう事にしたら、 やってもらうことはしてもらいながら、 一切お金を払わないつもりの人が多く、 よほど請求でもしないと、 なんでもタダだと思っている人間ばかり。 友達なんだからタダでしょう、と思いたいのだろう。 しかし、それは道理が通らない。 筋を通そうとして、お金を請求すると、 これまた怒って絶縁とおいうケース。 こうして振り返ってみて、思うのは、 「友情」などというものは、存在しないのではないか、 ということである。 こんなことを言うと、 いやいや、それは間違っているよ、と反論する人が 必ずいるが、人々が友情だと信じている関係というのは、 実は、単なる「利害の一致」に他ならないのだ、と、 私は思う。 利害が一致しなくなったとき、 友情という薄皮がはがれて、あっさりと消滅する関係。 とはいえ、ひとりでは生きられないものなのだから、 どしても発生する人間関係に「友情」という名前をつけて、 気持ちよくつきあっていくことは、大事かもしれない。 めんどうなので、なるべくひとりで生きていければいいな、 などと思う今日この頃である。 合掌 友情・初恋 友情を疑う お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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