アメリカの利己主義デモクラシー
2005年1月20日、アメリカ ワシントンDC。新しい歴史の一ページが始まる。第43代大統領、ジョージ・W・ブッシュの第2期目、55回目の大統領就任式となる。世の時勢は未だ終わらぬイラク戦争で毎日のようにアメリカ兵やイラク人の死亡ニュースが流れ、津波災害の復旧・救済がされている中、お祭り好きのアメリカ人は、いやブッシュという利己主義の男は「自粛」という事を知らないようだ。この就任式に掛かる費用は3~4億ドルらしい。そしてこの中にはセキュリティー費用は含まれていないそうだ。9つの舞踏会が開催され、ディナーパーティーチケット代は一人$2,500とニュースで聞いた。出席するのは大企業の人達。な~んだ、結局ロビー活動な訳ね。出席する事で、企業がブッシュ政権をサポートしているという態度を見せ、ロビー活動のに有利に動くと言う訳だ。アメリカ人の姿が時代をワープして幕末の頃のチョンマゲ姿の大名や武士達とだぶって見えてきた。大政奉還後、徳川幕府につくか、朝廷につくか。この大統領就任式、第一回目の初代大統領ジョージ・ワシントンの就任式は1789年4月30日に現在のニューヨーク・ストック・エクスチェンジ(NYSE)の直ぐ横にあるフェデラル・ホールで行われた。そこにはジョージ・ワシントンの銅像がある。だから彼の銅像はワシントンDCにないのかもしれない。就任式は、聖書に片手を乗せ憲法の宣誓を立てる。“I do solemnly swear that I will faithfully execute the office of the President to the United States and will, to the best of my ability, preserve, protect, and defend the Constitution of the United States.”そして、“So help me God” (だから神様助けて下さい)と付け加えたそうだ。今もこの宣誓(Oath)は変っていない。「神様、お助けを」の部分も一緒に。宣誓の後は演説があり、パレードがある。これもジョージ・ワシントン大統領が始めた事らしい。そして夜は舞踏会(Inaugural Ball)。今回は9つの舞踏会が用意されている。それだけでなく、ファッション・ショーなどもあり、エンターテイメント盛りだくさん。自粛した方が、、、という声もあるようだが、全く変らずに取り行なわれるという。そうだろうなぁ、自己中の塊のブッシュは世の時勢も省みずに自分の為にあるのパーティーを楽しむんだろうなぁ。17分間の就任演説は、「自由を世界で推進することが、世界と米国をより安全なものにするために、いかに重要かなどについて語る」 らしい。ブッシュ大統領の辞書の中の「自由」の定義は? 「安全」って? 「平和」って?彼からリーダーに相応しい「博愛」とか「人間性」のオーラを全く感じられない。アメリカ建国の父達、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、ベン・フランクリンが今も生きているとしたら現大統領ブッシュをどう見るのであろうか。今月末に行われるイラクの選挙を前に盛大にお祝いして、デモクラシーというのがどういう事か教えたい、みたいな事を言っていた。デモクラシーなら何でロビー活動の為の企業が占める就任式なの? アメリカの国民から選ばれたなら、選んだ普通の有権者である国民が祝うべきなんじゃないの?でも私はテレビ中継が嫌い。見た目を良くする為に起用されるマイノリティーの人達の映像が嫌でも目に飛び込んでくる。テレビの画面のフレームにうまく配置されている。ビジュアルで、いかにも様々な人達からサポートされているように映し出すそんな演出がウソ臭くて嫌いだ。アメリカのデモクラシーの宣伝か。いかにもアメリカ的だ。ふと、考える。「デモクラシー」の語源はギリシア語。古典ギリシャ語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせた合成語デモクラティア(democratia)がデモクラシーの語源。デモス(人民) + クラティア(権力・支配) = デモクラシー でも民主主義ではない。何故なら古代ギリシャでは女性や奴隷、違うポリス(都市)の者には選挙権が認めらなかったからだ。じゃ、宣伝しているデモクラシーって一体何?大学時代に哲学の時間で習った事は難しくてよく解からなかった。もう一度教科書を開いてみる必要があるな、と思う。でも明日が就任式だと思うと気分が重い。そんな時、シンクロしたように孔子の言葉を耳にした。『自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)からずんば、褐寛博(かっぱんぱく)と雖(いえど)も吾(われ)懼(おそ)れざらんや。自(みずから)ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」と。』【自らを省みて正しくないと解かれば、たとえ相手が取るに足らない者でも 私は恐れぬ。しかし自らを省みて正しいと思うのであれば、私は千万の敵であろうと恐れることはない。】異人もいれば偉人もいる、そう歴史が教えてくれたような気がした。