鳥取物語 第十章 第三節 ●雪わらしこのきた里●
鳥取の冬はどこもかしこも新雪で包まれていた。 子供たちや小動物が踏みならわしても、また晩にはその上にしんしんと雪が降り積むからだ。 ここはまさに別世界だった。 この季節、相生は外界からまったく遮断され、古来より独特の生活が展開した。 出稼ぎに行く人はいなかった。大人たちはスキーかかんじきを履いて狩りのために雪山をわたり、吹雪が始まると土間でわらを打ったり工芸品を作ったりして過ごした。 子供たちの遊びも、冬は冬なりに豊富であった。 そりすべりやクロスカントリーは、ひがな一日やっていても飽きなかったし、天気の悪い日には家近くの作り置きのかまくらに入って、手作りのおこし片手におしゃべりに興じた。 一瞬の遊びとしては、なにやら謎めいたものも二、三あった。 鳥取にも雪倒れになった子供たちの供養として、東北地方の「雪わらす」に似た「雪わらしこ」という信心があった。 それにまつわるもので、みんなで輪になって目をつむったままひとりづつ数を言っていく。 人数分数え終わったら、今度は逆に数えて一番の子に戻す。 たとえば、八人で遊ぶならば、こういうふうに数えていく。 1、2、3、4、5、6、7、8、 8、7、6、5、4、3、2・・・ ところが、はじめに一番と言った子が、ときによって「一番」をとなりの子に先に言われてしまうことがある。 自分まで数がまわらないのだ。 つまり、人数がはじめに数えたときより、その分が増えていたことになる。 これはどういう現象なのかいまだによくわからないが、子供たちはさして気味悪いような気分にもならないで、よくこの遊びをやったものだ。 そして、本当に何回かに一度は人数が増えた。増えたのは、雪わらしこが一緒になって遊んでいると考えられていた。 また、もっと実際的に雪わらしこと遊ぶ方法として、以下のようなものが考案されていた。 みんなで目をつむって肩を組み合わせ、顔を雪にくっつけて雪の上に顔型をとり、そのまま右にずれてもう一度となりの子が押し付けた部分に自分の顔をつける。 それから、ふたたび左にずれて最初に自分がつけた顔型に戻る、という作業をする。 すると、人数分の顔型以外に、一番右側の子のみの顔型がひとつ増えているはずだが、見ると、左側にも誰か判別のつかない顔型が残されることがある。 これが雪わらしこの顔である。 それが現われる度に、おほーっと小夜たちは感心したものだ。 小夜は歩けばなんとかなる単純なスキーにもすぐに慣れ、年も明けるとみんなのクロスカントリーにも邪魔にならない程度についていけるようになった。 豪雪地帯の冬休みは長い。 小夜たちは毎日お弁当を腰に結びつけ、たいこうがなる(久松山)にくり出して、山スキーを楽しんだ。 動物の足跡を見つけると、男の子たちは、その正体を見るまで追跡をやめなかった。 足跡の先には、たいがい狐か雪うさぎがいて、子供たちを見ると一目散に逃げていくのだった。 小夜も何度か見慣れていくうちに、足跡だけで何の動物かがわかるようになっていた。 それは、夏の時分に、抜け殻だけでセミの種類を当てられるようになったことと同じくらい、小夜には誇らしいものであった。 夏は夏で、冬は冬で、長い休みはすなわち冒険の始まりだった。 そばには心通いあう仲間たちと、信頼に足る大将がいつも一緒だった。 このように、当時の小夜の冒険とは、常に安心がついてまわるものであった。 冒険とは、本来そのようでなければいけないのではないかと思うのだが、皆さんはどうであろう。 第十章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- 冒険といえば──。 植村直巳がマッキンリーで消息を絶ったのは、私が中学に入った年のことでした。 1970年8月、マッキンリーの単独初登頂をなしとげた植村直巳は、1984年2月12日、43歳の誕生日に冬季単独初登頂を果たしましたが、翌朝の無線交信を最後に消息を絶ちました。 捜索隊は雪洞に残された遺品や頂上に立てられたピッケルと国旗を持ちかえりましたが、彼の行方はついにつかめませんでした。 捜索隊には、冬のエベレスト北壁に挑戦して帰国したばかりの人も何人か含まれていましたが、捜索から帰るなり「あの山は実際の高さより1000mは高い、ヒマラヤの7000mと同じ厳しさだ」と報告したのです。 冬には想像を絶する風速60m/hの強風が吹き、気温は氷点下60度を記録する中、植村直巳の遭難から5年後の2月、当時日本最強の登山家といわれた、山田昇と2人の仲間もマッキンリーのこの過酷な気象に命を奪われました。 さて、私に強烈に印象付けたのは、捜索が打ち切られた後の関係者による記者会見の中継の模様でした。 その席で、植村直巳の夫人が、 ──夫は探検家であり冒険家でもありました。 冒険とは、生きて帰ること。 自らを冒険家と称す者が、命を落とすような冒険をしたことは、 だらしがないと思います。 と怒りにふるえて言い放ったのを、ほとんど泣かんばかりにして聞いたおぼえがあります。 冒険から戻ることのなかった冒険者を、死んだ愛する夫を、だらしがないと一刀両断する──。 亡き夫の気持ちをただ代弁するだけの妻と違い、夫と真に冒険者という魂を共有していたからこそ言えた言葉だと、私は深く心を打たれました。 手前味噌なお話ですが、私の父は山男でした。 中高時代に山岳部に入り、縦横無尽に山を歩くのが好きな人でした。 植村直巳が消息を絶ったのち、父は単独グレートマッキンリーに入り、彼を捜索しようとしました。 父も消息を絶ったかと思いきや、ある日マッキンリーのワッペンの付いたTシャツを大量にお土産に抱えてひょっこり戻ってきました。 「いやぁ~。植村さんには会えなかったなぁ。でも植村さんを知ってる人には何人も会ったよ~」と笑いながら。 その父もガンには勝てず、五十七歳で亡くなりました。 この一章を、鳥取を愛した父に捧げます。 明日は第十一章のはじまり●大将たる者たち●です。 相生の大将が代替わりの時を迎えます。 タイムスリップして、名将いしきなにねぎらいの言葉を!